熱狂的な駅伝ファンたちは、高校時代からずっと村澤を見てきた。2008年の都大路(全国高校駅伝)、両角速・監督(現・東海大監督)率いる長野・佐久長聖高で3区を任された村澤は、仙台育英のポール・クイラ(現・コニカミノルタ)に食い下がり、歴代日本人最高記録で区間2位。チームの初優勝の立役者となった。
村澤は“アフリカ選手と互角に渡り合うランナー”としてファンの心を掴んだ。東海大では1年次(2009年)の箱根予選会でいきなり個人1位。3年連続で2区を走る絶対的エースとなったが、最も記憶に残るのは4年次(2013年)の大会だ。
このシーズン、村澤は故障に泣き、それが響いてチームは予選落ち。学連選抜の2区には、東海大のチームメイトで準エースの早川翼(現・トヨタ自動車)が選ばれた。
この箱根で、村澤は「給水員」を志願する。当日、権太坂で早川に水を渡す役を買って出たのだ。そのシーンを私は現場で見た。村澤は100m近い距離を完全にピッチを合わせて並走。箱根を走れない無念、部員たちへの申し訳なさ──そうした様々な思いが詰まった給水だった。公式記録上、村澤は2区を3回しか走っていない。しかし、私たちの記憶のなかでは確かに、4回目があった。
その村澤が解説者として帰ってくる。伝説の給水地点をはじめ“ゆかりのポイント”で何を語るのか。
■文・撮影/EKIDEN NEWS 西本武司
※週刊ポスト2017年1月1・6日号