その子である今上天皇は、父の流儀を受け継ぎ、発展させた。雲仙普賢岳の噴火のとき、阪神淡路大震災のとき、東日本大震災のとき。被災地に出向いた。国民と共感共苦した。硫黄島へ、サイパン島へ、フィリピンへ、ペリリュー島へ。日本軍兵士の犠牲の多かった激戦の地に慰霊に赴いた。昭和天皇よりも外に出る回数を増やした。
その果てに「生前退位」の思想も生み出される。人間天皇は国民とのあいだに信頼と敬愛の絆を切らしてはならない。国民とふれあい続けねばならない。それが老齢や病気などの理由でしにくくなると、人間天皇としての存在の持続は困難になる。
天皇自らが国民とふれあってこその人間天皇だから、代理の摂政をたてても意味がない。どうしても「生前退位」だ。
だがそのような人間天皇のありようは日本国憲法で定められてはいない。そもそも憲法に人間天皇という言葉はない。あるのは象徴天皇である。第1条はこうだ。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
では象徴天皇とは憲法上、何をするのか。国事行為である。法令や条約の公布、国会の召集、国務大臣の任命、栄典の授与等々。しかも天皇は自由意志でそれらを行えない。極端な表現を使えばロボットのような役目。内閣の決めた通りに、署名し、捺印し、任命や授与を行う。
国民と共感共苦する旅などの行動は、天皇の国事行為にカウントされていない。それはあくまで「日本国民統合の象徴」であるための公的行為として憲法解釈上認められているにすぎない。
国民とふれあい続ける人間天皇のイメージは、現人神天皇の威力で国民を動員し、挙げ句の果てに派手に負けてしまった反省から、生まれたのだろう。その意味で人間天皇は、平和国家や戦後民主主義や日本国憲法の精神と相性はよい。
ところが日本国憲法の具体的に定める象徴天皇は、国民と共感共苦せずとも、いや、国事行為すら行えずとも、摂政をたてれば、そのまま天皇であり続けてよいように設計されている。とすれば、日本国憲法の定める象徴天皇は、人間天皇よりも現人神天皇になじみやすいという解釈もありうるだろう。
●かたやま・もりひで/1963年生まれ。慶應大学法学部教授。思想史研究者。慶應大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。『未完のファシズム』で司馬?太郎賞受賞。近著に『近代天皇論』(島薗進氏との共著)。
※SAPIO2017年3月号