私はひとりで台所の片隅のテーブルで食事をします。母はいるのですが、一緒に食事をすることはなく、台所の掃除などをしていました。だから、親子3人で食卓を囲んだ記憶が私にはありません。
「早くして」「汚い」「こぼさないで」と、たえず母に小言を言われながら食べる食事がおいしいはずはない。
それ以前に母の作る料理は、砂糖が入りすぎていたり、何の味もしなかったり。「おいしい?」と聞かれたこともないので、「おいしい」という感覚が、小学校で給食を食べるまでわかりませんでした。
だけどそんなことは母にとってどうでもいいことで、願いは、私をバイオリニストにすること。母は幼稚園児の私にバイオリンを習わせました。自分が叶えられなかった夢を私に託したのです。それが私の地獄の始まりでした。
毎日、幼稚園の前で母が待ちかまえていて、強制的に私をバイオリン教室に連れていきます。家に帰ると、今度は母の前で練習をさせられます。うまく弾けないと母は、「何やっているの」と口で怒るだけじゃありません。怒りに任せて、私の腕や背中を手に持った鉛筆やボールペンで刺すのです。あるとき、よほど強い力で刺したのでしょう。背中で鉛筆の芯が折れ、激しい痛みで私は気絶してしまいました。
さすがにまずいと思ったのか母は私を病院に担ぎ込み、「この子ったら鉛筆を持って遊んでいるうちに転んで、偶然背中に刺さってしまって」と、ありえないことを医師にヘラヘラと笑いながら話していました。
今なら、虐待の疑いがある、と医師が児童相談所に連絡を入れるのでしょうが、当時はどこの家の子も親に殴られたりしていましたから、医師もそれほど深刻に受けとめなかったようです。この時の傷跡は、今でも腕や背中に黒子のようになっていくつも残っています。
◆押し入れに隠れ住んだ祖母が死んだ日
あれは、忘れもしない、私が中2の初夏、実際に起こったことです。母の兄の家で暮らしていた祖母が、「お嫁さんと折り合いが悪い」と、娘の母を頼ってきたのです。聞くともなく聞くと、祖母は株券やら現金を持っていて、それを母に差し出して頼み込んでいました。
しかし、普段から会話がなく、食卓を共にしない父に、母は祖母の同居を相談できません。母は、勝手に祖母を家に入れることにしました。
父の許可がないから、祖母は夕方までリビングやキッチンにいて、父が帰ってくる夜から翌朝会社に行くまで、押し入れに潜んでいるのです。
大変なのが土日。父が散歩に出るわずかな時間や、寝静まった後にトイレを済ませ、食事をもって押し入れにもぐりこむ。
しかし、そんな生活も半年ほどで終わりました。夕飯に食べた魚介類で祖母が食中毒を起こしたのです。押し入れの中でもがき苦しむ祖母を、母は最初は小声で叱りつけていたのですが、そのうち祖母の声が動物がうなるようなそれに変わったとき、私は反射的に押し入れを開けました。