1937年9月上旬、呉淞の上陸作戦に参加した第11師団丸亀歩兵第12連隊で分隊長を務めた三好捷三氏の著書にはこうある。
〈こうしてビリから呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷(ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にヘドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。
これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変わりはてた姿であった〉(『上海敵前上陸』図書出版社刊)
第二次上海事変が始まる前から蒋介石の国民党軍はドイツ軍事顧問団の支援を受けていた。ドイツにとって中国は魅力的な市場であり兵器もその重要な輸出品だった。ドイツ軍仕込みの精鋭部隊は、日本軍の上陸が予想される地点にトーチカや機関銃陣地を構築し、侵攻を待ち構えていたのだ。“中国軍は弱い”と甘く見ていた日本軍は、大苦戦を強いられることになる。
多数の犠牲を出しながら中国軍を破った日本軍は、その後南京へと進攻した。「南京事件」は、上海戦の延長線上にある。アルバムの写真は、「南京」に至った過程を静かに語っているようだ。
当時、日本軍は記録のために写真を撮影していたが、敗戦後に処分されたのか、ほとんど現存していない。戦争資料に詳しい国文学研究資料館准教授の加藤聖文氏は、日中戦争の資料が多く失われた理由として、「戦争が長期化して整理がままならなかったこと」「日本軍の資料の保管が杜撰だったこと」を挙げる。