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2017.08.15 07:00  NEWSポストセブン

太平洋戦争のさなか、「偽札」を運ぶ列車が日本にあった

偽札は鉄道で運ばれ門司港駅に到着、大陸へ

 終戦記念日は、戦争について思いを馳せる日だ。敵国の内政を混乱させるには、経済を攪乱することが効果的だった。第2次世界大戦中、ナチスドイツがイギリスのポンド紙幣を大量に偽造したことは有名だ。が、同時期、日本でも同様に、秘密の国家プロジェクトとして外国紙幣を偽造していたことを知る人は、さほど多くないのではないか。偽造された紙幣は、鉄道を使って港町へ運ばれ、上海を起点に中国じゅうにばらまかれた。鉄道を利用した偽札運搬ミッションを、ライターの小川裕夫氏が追った。

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 日本でもっとも忙しい駅・新宿駅から小田急線に揺られること約30分。生田駅に到着する。各駅停車しか停まらない同駅は、明治大学生田キャンパスの最寄駅として、平日は多くの学生が利用している。

 駅から生田キャンパスまでは、線路沿い歩いて約10分。小高い丘の上に、いくつもの校舎が並ぶ。学生たちの喧騒を掻き分けながらキャンパス内を奥に進むと、ひっそりとした一画に明治大学平和教育登戸研究所資料館が現れる。

 明治大学は1950(昭和25)年に同地を購入したが、それ以前には陸軍登戸研究所と呼ばれる軍事施設が広がっていた。登戸研究所は敗戦とともに解散したが、当時の資料や実験器具は戦犯追及を逃れるために焼却処分された。そのため、登戸研究所の歴史は闇に封印されたままになっている。

 終戦から70年以上が経過し、当時を知る者は次々に鬼籍に入った。その間、歴史学者や郷土史家によって少しずつ登戸研究所の解明が進められてきた。

 登戸研究所ではアメリカ本土を空爆するための風船爆弾、毒ガスを用いた化学兵器、敵国の食糧を絶つための枯葉剤などの開発していた。

 そうした最先端技術を盛り込んだ兵器もさることながら、登戸研究所内でもトップシークレットとされていたのが偽札の製造だった。明治大学教授で同館の館長も務める山田朗教授は、当時の様子をこう解説する。

「登戸研究所が偽札の製造に手を染めるようになるのは、1939(昭和14)年からです。短期で終結すると想定していた日中戦争が、長期化してしまったことがきっかけでした。政府や軍部は国力の消耗を抑えながらも中華民国(中国)を弱体化させる作戦として、偽札を製造して経済を混乱させるという経済謀略に舵を切ったのです」

 翌年、登戸研究所が取り組んでいた中華民国蒋介石政権が発行した紙幣「法幣」の偽札第1号が完成する。偽法幣の見た目はそれほどの違和感はなかったが、手触りが全然違うために簡単に見抜かれる代物だった。

 それでも完成した偽法幣は登戸駅から川崎駅まで運ばれ、川崎駅で東海道本線に積み替えられた。偽札製造が始まった当時、現在の南武線はまだ国有化されておらず、南武鉄道という私鉄だった。

 南武鉄道は多摩川で採取される砂利や青梅で採掘される石灰などを工業地帯の川崎に運搬することを目的に設立された。そのため沿線には工場が多く立地しており、私鉄ながらも南武鉄道は重要な路線だった。

 登戸駅から大陸まで偽札を運ぶ重大任務を命じられたのは、1938(昭和13)年にスパイ養成校として設立されたばかりの陸軍中野学校の卒業生たちだった。

 登戸研究所で偽札を製造していたことは、政府や陸軍上層部、憲兵、登戸研究所所員でも知っている者は少数。それだけ秘匿性の高い作戦でありながら、中野学校の卒業生が運搬役に選ばれたのには確固たる理由があった。

「国家ぐるみで偽札を製造することは、戦争という非常事態でもタブーとされていました。日本が国家ぐるみで偽札を製造していることが露見すれば、貿易にも支障が出てきます。さらに、日本がそうしたルール無視の偽札製造をしていることを理由にして、アメリカやイギリスが日本の偽札の製造に乗り出す口実を与えないという狙いもありました」(同)

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