西郷隆盛の人物像といえば、「度量が非常に大きく、仁愛に富んだ類い希な人格者だった」「栄達を極めたにもかかわらず、清廉潔白な人柄だった」といったイメージが一般的だ。
一方で、「豪傑肌ではあったが、度量が狭かったため敵も多かった」「血気にはやるあまり、協調性に欠ける頑固者だった」といった人物評が、若い頃からの西郷を知っている同郷の薩摩藩士・重野安繹らの証言として残されてもいる。
その相反する人物像はすべて真実であると語るのは『西郷隆盛伝説の虚実』の著書がある歴史家の安藤優一郎氏だ。
「現在、一般的に知られる人格者としての西郷像は、没後にまとめられた『南洲翁遺訓』によるところが大きい。しかし、それはあくまでも晩年の西郷なのです」
重野らの西郷評は、若い頃の姿を伝えているという。
「若い頃から江戸や京都で活躍していた西郷が、鹿児島を出たことがない主筋の島津久光を“地ゴロ”(薩摩で田舎者を意味する蔑称)と呼んだと伝える史料もある。血気盛んで、能力は高いが周りに対して厳しい、度量の狭い男だったんです。
現在知られる人格者としての西郷は、激動の時代の中、紆余曲折を経て人間的に成長した後の姿。最初から完全無欠の英雄だったのではなく、人間らしい弱さをも合わせ持つ人物だったのです」(安藤氏)
◆取材・構成/浅野修三(HEW)
※SAPIO2017年10月号