「藤井六段が『最善手』と言い、羽生先生が『勝負の世界』と言う時の過酷さを、僕らは想像することしかできません。しかも彼らは盤上に誰も見たことがない世界を創造する同志でもあり、勝つことが絶対正義となる世界と、勝ち負けを超えた真理の追求が共存するのも、他の世界にはないと思う。
大谷(翔平)選手の165キロや清宮(幸太郎)選手の場外弾は可視化された凄さですが、いわゆる羽生マジックの一手は理論上は誰でも指せる手。なのに何が起きたかはプロにもわからない。ただ何か凄いことが起きたのは確かで、彼自身、『今後200年指し続けても将棋はわからない、それでもいい』と言う深淵さやわからなさが、将棋の一番の魅力だと思う」
沢木にとってのカシアス内藤や、ボブ・グリーンにとってのマイケル・ジョーダンのように、〈私の視線の先には羽生善治がいた〉と氏は書き、会話だけで構成した清水市代女流のインタビューなど、随所に沢木熱を発見するのも一興だ。
「僕にとっては輪島功一さんの再起に密着した『ドランカー〈酔いどれ〉』がノンフィクションの理想形で、本書でも綺麗事は一切書いてない。むしろ棋士たちが日々繰り広げるリング上の殴り合いに似た真実のドラマを、自分が見たままに、冷静に書いているだけなんです。彼らの指す将棋がそれこそ人格すら物語る瞬間は確実にあって、一見冷たい盤面に途轍もなく熱い闘いや人生が交錯する一瞬を文章に書くことが、僕の夢になったんです」
記録や育った環境などでその人を語ることは幾らもできよう。が、盤面こそが体現しうる人間像に本書は肉薄しようとし、その点が懐かしく、新しいのである。
【プロフィール】きたの・あらた/1980年石川県生まれ。学習院大学在学中から『SWITCH』で編集を学び、2002年報知新聞社に入社。読売巨人軍担当等を経て、現在は文化社会部で映画や演劇、将棋等を担当。2014年にNHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段対三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞を受賞。著書は他に『透明の棋士』。『みんなのミシマガジン』の連載も継続中。188cm、86kg、A型。
■構成/橋本紀子 ■撮影/国府田利光
※週刊ポスト2018年3月9日号