しかし、宗教はそうではない。宗教者のする修行のうちのいくつかは、医学的に見て明らかに健康を損なう。それでも宗教者はその不健康な修行をする。神がそう命じているからだ。健康を損なっても神の命に従うことは、むしろ宗教者の誇りである。
愛知県稲沢市の国府宮神社は、勇壮な「はだか祭」で知られる。数千人の裸形の男たちがもみ合い、何年かに一人は死者が出る。今春も一人が死亡した。「人命にかかわる状況」だが、祭を「不適切」とする謝罪はない。また、女人禁制もあるが、「変革の勇気」を訴える声も出ない。このはだか祭に類する祭は全国各地にある。
イスラムではラマダンに断食が行なわれる。昼間は一切の食事をせず、日没後に食物の食いだめをする。健康上の観点からは絶対にやってはいけないことをするのだ。理由は、神もしくは予言者の命令だからである。宗教は健康のためにあるわけではない。宗教のために、宗教のためにだけある。
イスラム系住民がラマダン中に子供の学校給食を拒否したらどうするか。豚汁はどうするか。豚由来の薬品を病院で緊急使用する事態になったら、どうするか。
同様の問題は、キリスト教でも起きている。キリスト教原理主義の一派では輸血を拒否している。そのため、交通事故に遇った子供が死亡している。
我々は、信教の自由の名のもとに、異文化理解の名のもとに、宗教を甘く見ているようだ。私は宗教は実に魅力的だと思う。危険だからこそ魅力的だと思う。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。
※週刊ポスト2018年4月27日号