ステージママとして有名な筆子さん
「どこに行くにも母娘が一緒で、周囲の人から“お母さん付きですか”と嫌みを言われ、新人歌手を独り立ちさせたい事務所からは“お母さんと離れなさい”と散々注意されました。それでも筆子さんは意に介さず、“よしみを守る人間は私しかいないので、どこまでも付いていきます”と娘を守りました。10代で見知らぬ東京に来た天童さんとしては、相当心強かったはずです」(前出・音楽業界関係者)
◆母の頬の冷たさに誓った活躍
当時はアイドルが全盛になりつつある時代。演歌業界は下り坂だった。鳴かず飛ばずが5年間続いた天童は、大阪に帰って出直すこととなった。
「大阪に戻ってからは筆子さんがマネジャーの仕事を一手に担い、細々と歌手活動を続けました。口が悪い大阪人から、“顔が悪いから売れへんねん”と中傷された天童さんが落ち込むと、筆子さんは“人の言うことはほっとけ! あんたには必ず出番がやって来るんや”と励ましていました」(芸能関係者)
大阪に戻って8年が経った1985年、天童は『道頓堀人情』という歌と巡り合う。
《負けたらあかん》
母娘のこれまでの歩みを描いたような歌に「これは絶対売れる。ここで勝負や!」と確信した2人は全国各地をキャンペーンで行脚した。
「“もう後がない”という気持ちで北海道から九州までのレコード店や飲食店を足で回り、レコードを手売りしました。お客さんが少ない会場では、筆子さんが“頑張れよ!”と声をかけて、場を盛り上げました。天童さんにとって地獄のようにつらい日々でしたが、筆子さんは“つらいのは今だけや。長く続くわけがないから”と励まし続けました」(前出・音楽業界関係者)
雪が降り積もり、凍えるような寒い冬の晩、天童が北海道の狭い居酒屋で歌ったとき、筆子さんは2時間以上も店外でステージが終わるのを待っていたという。
「歌い終わって母を抱きしめたとき、お母さんの頬の冷たさに天童さんは驚いたそうです。そのときに、“もう絶対こんなところでお母さんを待たせるような仕事はしない! 暖かい部屋でソファに座って待っていられるような状況にしてみせるから”と誓っていました」(レコード会社関係者)
全国キャンペーンの甲斐あって、『道頓堀人情』は有線放送で人気を博し、初めての大ヒットを記録。以降、天童は不動の人気歌手の道を歩み始める。
※女性セブン2018年8月16日号