官庁街になる計画もあった日比谷駅界隈
井上失脚後は世論の批判をかわすことができなくなり、鹿鳴館はその役割に幕を下ろす。鹿鳴館が潰えた後、井上は実業家の渋沢栄一や大倉喜八郎にその夢を託した。
渋沢と大倉は井上の夢を引き継ぎ、1890年に帝国ホテルを開業させた。帝国ホテルの開業は井上個人が描いた夢だが、当時の政府にとって諸外国からの賓客を”おもてなし”する必要があり、政財界が待望していた施設でもあった。
また、訪日外国人のおもてなしの場であるハード面の整備のみならず、ソフト面での充実も図った。1893年には東京府知事も歴任した元徳島藩主・蜂須賀茂韶を会長とする貴賓会が発足。
貴賓会は外国人観光客の誘致を目的とし、宿泊所の斡旋や鉄道の案内などを主業務にしていた団体で、JTBの前身にあたる。
訪日外国人の窓口になっていた日比谷に、さらなる歓待施設として帝国劇場が開場。ここから日比谷は劇場街として歩み始めることになるが、劇場街は外国からの賓客をもてなすという国策をソフト・ハード両面で具現化したものでもあった。
帝国劇場ではオペラや歌舞伎などが上演され、外国人観光客にとどまらず東京市民の間でも話題になった。三越百貨店の広告文句でも”今日は帝劇、明日は三越”と謳われた帝国劇場は、上京の折に見物する名所にもなり、名声を高めていく。
昭和に差し掛かる頃、「日比谷に帝国劇場あり」といった意識が定着。そうした時期に、阪急の総帥・小林一三がタカラヅカの東京進出を考えるようになる。
山梨出身の小林は上京して福澤諭吉の門を叩いた。慶應塾生になった小林は勉学に打ち込む一方で、浅草や芝の劇場にも足しげく通った。
こうした芝居好きの血が後年にタカラヅカを生むことになるわけだが、当初のタカラヅカはあくまでも阪急電車に乗ってもらうための仕掛けに過ぎなかった。しかし、次第にタカラヅカは大きく成長。全国公演を実施した。
帝国劇場での初公演は、タカラヅカ結成から4年後に訪れた。タカラヅカは初公演を成功させた後、毎年3~4回は歌舞伎座や新橋演舞場を借りて東京でも公演するようになっていた。
タカラヅカが頻繁に東京公演をこなした背景には、小林の活動拠点が関西から東京へとシフトしつつあったことも理由のひとつにある。
小さな鉄道会社を関西の大企業に育てた実績を見込まれた小林は、東京財界から経営手腕を見込まれるようになった。小林に舞い込む依頼の多くは、業績が低迷する企業の再建だった。
東京電力の前身・東京電燈の再建も任されることになるが、その際に小林は東京電燈が日比谷に所有していた土地を買い取り、そこに東京宝塚劇場・日比谷映画劇場・有楽座を開場させている。その後、帝国劇場は経営危機に陥るが、その際も救済のために阪急傘下に収めた。
こうして、日比谷は阪急の力によって日本でも屈指の劇場街へと変貌。小林は日比谷一帯をアメリカ・ニューヨークの劇場街「ブロードウェイ」になぞらえて、日比谷を”アミューズメント・センター”と称した。
劇場街と化した日比谷は、今でもそれを継承。公演後にスターを出待ちする光景は、日比谷では日常風景に溶け込んでいる。
丸の内・大手町で働くビジネスマンの娯楽の聖地を目指した日比谷に対して、小林は庶民の娯楽の街をつくることにも取り組んだ。小林が庶民の街として、着目したのが錦糸町だった。