よく使われる言葉について、その由来が誤解されたまま広まることは、よくあることだ。「村八分」という言葉をきっかけに、評論家の呉智英氏が確信した、朝日新聞「折々のことば」が「ツマラン」理由について考えた。
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最近、奈良県天理市で村八分事件が起きた。関西の友人と話していて知ったのだが、私の住む名古屋では報道がない。友人もネットニュースで知ったらしく、プリントアウトを送ってくれた。
そのうち信頼できそうな「弁護士ドットコムニュース」によると、天理市内に転入した夫婦が当地の自治会から村八分にされ、葬式にも来てもらえなかったという。
確かにひどい話で、行政の補助組織である自治会で起きた事件であれば、農村の閉鎖性という一般論ですむことではない。とはいえ、今ここでその自治会を批判しようというわけではない。同ニュースに気になる箇所があるのだ。
「ツイッターでは『葬式にも来ないんじゃ村九分じゃねえか。村八分よりひどい』など批判の声があがっています」
同ニュースが事件の悪質性の補強証拠のようにする「葬式にも来ないんじゃ村九分」って、何のことだろう。葬式と火事の二つを除いて付き合いを断つから村八分だという謬説(びゅうせつ)を信じているのだ。