全体の趣旨がよく分からない。村八分は悪いと言いたいのか、良き風習だと言いたいのか。二分だけ外したのは民衆の叡智だとも読める。十分を行政や企業にまかせると村の協同の力が落ちるからよくない、ということなのだろうか。
そもそも「消火と埋葬の二分を外す」から村八分とするのが謬説なのである。柳田国男は、八分には「鉢」の意味が重っている可能性も示唆しており、もっと大きなテーマにつながるかもしれない。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。近著は『日本衆愚社会』。
※週刊ポスト2018年10月26日号