柳田国男ら民俗学者は、この説を否定している。ハチブは弾くである。ハチブはハブ・ハバとも言うが、これは省くである。単純明白に「排除」であって、葬式と火事だけは手伝うなどというのは言いわけにすぎない。
他でも、相当の知識人のはずなのに、この謬説を信じそれに基いて論評する人がいる。
朝日新聞に二〇一五年から「折々のことば」が連載されている。執筆者は哲学者で元阪大総長の鷲田清一。大岡信の「折々のうた」の後を受けて始まった連載だが、これがものすごくツマランのだ。思想家や文学者などの言葉に混じり、芸能人や無名の町の人の言葉が紹介され、わざとらしい“民主主義”が感じられる。
前身の「折々のうた」には、詩歌の選択にしろ解釈にしろどこか啓蒙性があり、それが魅力だった。私自身、随分啓蒙された。
これは私と鷲田との思想のちがいだからさておく。「折々のことば」がつまらんと確信したのは、二〇一六年三月九日付(連載三三四回)を読んだ時である。
この日紹介の言葉は「村八分」。解説はこうである。
「掟を破った者を」「排除する制裁」。「協力して行う仕事」の「うち消火と埋葬の二分を制裁から外したのは、延焼と伝染病が村人に及びかねないから」。「現代の都市生活では、二分どころか十分を行政や企業」に依存し、「協同の力がぐっと落ちている」。