このように、先に印象付けされた特定情報が、その後の判断に影響を与える心理現象のことを「アンカリング効果」という。錨(いかり、アンカー)を海底におろして、その場に係留する船になぞらえたのが語源だ。ゴーン容疑者の場合は、自分で目にしてきたグローバル水準が、報酬に関する特定情報として、彼の中に“アンカー”を下ろしたのだ。いったんアンカーを下ろすと、船はそこからほとんど動かなくなる。ゴーン容疑者が、いくら批判されても「競合他社と比較しても妥当」と聞く耳を持たなかったのはこのアンカリング効果によるものだろう。
2010~2014年度の5年度分で申告されたゴーン容疑者の役員報酬は約49億8700万円。だが、実際に受け取っていた額は約99億9800万円だった。単純計算しても年棒約20億円となるが、この金額こそ、彼のグローバル水準の最低ラインであり、アンカーだったのではないだろうか。
経済学者のマッテオ・モッテルリーニは、著書『世界は感情で動く: 行動経済学からみる脳のトラップ』(紀伊国屋書店)で、「ビジネスの現場でアンカーになる数字が提示されると、あとの交渉がこの数字を軸に回転するようになる」と書いている。報酬額の決定についても同様のことが言える。高額な水準がアンカーとなっていたなら、ゴーン容疑者はその水準を最低ラインにして、自らにふさわしい報酬や待遇を権力を使い得ようとしたのだろう。そのために、同じく逮捕された代表取締役のグレッグ・ケリー容疑者が指揮を取り、側近幹部2人が不正行為の実行役となっていた。
さて、今回の事件を受け、同社の西川廣人社長が夜中に会見を行ったのだが、冒頭から座ったまま。「遅い時間の会見で申し訳ない」と記者らへの謝罪から始まったことにも違和感を覚えた。さらに西川社長は、今回の事件を「本人の主導による重大な不正行為」と説明し「会社を代表して深くお詫び申し上げたい」と陳謝したが、頭を下げることはなかった。この一連の言動からは、ゴーン容疑者と西川社長との間に、見えない壁、いや大きな溝を感じさせた。
ゴーン容疑者の長期政権への弊害を述べ、「ゴーン」と呼び捨てにする場面もあったことから「クーデターではないか」という質問が出たが、これを否定した。だが、事件の端緒は内部告発だという。日産とルノーの経営統合計画をゴーン容疑者が先導し、西川社長との間で緊張が高まっていたという報道もある。なぜ今、このタイミングで表沙汰になったのか、2人の間の“溝”を感じずにはいられないが、何にせよ、アンカリング効果が、ゴーン容疑者が不正を始めるきっかけに影響を及ぼしたことは、間違いないだろう。