果たして理想の最期とはどんなものか──。認知症を患う母(84才)を支える立場となった本誌・女性セブンのN記者(55才)が、介護の現実と、「最期」に迫る。
* * *
母は認知症だが、衰えに抗いながら前向きに生きているように感じられて、“人生の終わり”がどうもピンと来ない。だが、前向きに生きているうちに、“終わり方”を考えるべきなのかもしれない。そう遠くない将来の自分に向けた、シミュレーションでもあるのだ。
◆みんなで手を携え送り出す。そんな見送り方が理想
「延命はしない! 家で穏やかに最期をと…ばあちゃん(義母)とも主治医とも話していたのに、いざとなるとオロオロして、家に帰ることなく逝かせてしまった」
悔しそうにそう話すのは、イラストレーター・なとみみわさん。長年同居していた義母の老いを支え、悲喜こもごもの介護記録を、自身のブログ『あっけらかん』で公表していた。
一昨年、88才の義母が脳梗塞を起こして入院、いよいよ終末期を覚悟したという。帰宅することになった矢先、看取ることになった。
「もう少し早く家に連れて帰れば、ばあちゃんの望みが叶えられたのに」と、なとみさんは心残りをこぼすが、義母の人生の最期の瞬間まで、本人と家族、医師、介護スタッフまでが心を通わせていた姿には心から感動した。きっとお義母さんは満足で幸せだっただろう。私の理想の看取りだ。
一方、わが母の最期に思いを馳せると、まったく現実味がない。終末期のことを話す雰囲気など皆無だ。
家族で楽しく出掛ければ、母は必ず「パパも来たかったでしょうね。死にたくなかったはずよ」と、心筋梗塞で急死した父を憐れみ、そうかと思えば最近あちこちで目にする“人生100年時代”というフレーズには「百まで生きるなんて嫌だわ~。それまで何をすればいいのよ」と、妙に的を射たことを言う。
母が自分の最期をどう考えているのか、きちんと聞いたことはない。趣味の読書やデイサービスに励み、たまの外食にウキウキし、認知症にも前向きに挑んでいる母に、最期のことを話すきっかけが見当たらないのだ。
父の看取りで、子供がさまざまな選択や決断を迫られることは学んだので、母と話しておくべきなのはわかっているが、こればかりは事務作業のようにサクサクは進まない。
◆誰のもとにも訪れる死。親が先に逝くとは限らない
そんな私が、考えを新たにする出来事があった。私も50代半ば。更年期の不調も相まって、気力体力にすっかり自信がなくなった。
少々疲れがたまっているなと感じていたある日の夕暮れ、自転車を走らせていると急にめまいが。次の瞬間、スローモーションのように民家の塀が迫ってきて、ドスッと頭を打つ音が聞こえ、自転車に積んだプチトマトが宙に舞うのも見えた。「私、死ぬ?」と、全身に緊張が走った。