〈人間の闇〉を描いて定評を得る正吉が、実は万事にウブな引きこもり男という設定が面白い。例えば智が淹れるコーヒーに、正吉は〈君はバリスタなのか?〉と感動しきりだが、それは単なる〈ネスカフェゴールドブレンド〉の牛乳割り。智は〈自分のために淹れるコーヒーより人のために淹れるコーヒーのほうが絶対的においしいわけだから〉と言い、〈そうなのか〉と一々感激する彼は、息子の出現に伴う変化に意外にも素直に反応する50男だった。
美月とは友人に誘われた飲み会で出会い、つい酔った勢いで一夜をともにする。その一夜限りでできた子供を美月は独身のままで産み、結婚を求めることもなかった。
その子・智は近所の年寄りともさっそく親しくなり、自治会の祭りでは正吉にまで古本市係の仕事を決めてきた。またある時はたった2か月働いただけのバイト先の店長〈笹野幾太郎〉氏の誕生日にプレゼントまで贈り、〈身近に誕生日の人がいたら、おめでとうくらい言うのは自然なことだよ。人を喜ばすことができるかもしれない機会が目の前にあれば、やってみたくなるだろう?〉と平然と言った。
「その笹野氏に智を捨てた事情をあれこれ言い訳した正吉は、〈俺は罪深いばかな男なんだって言っちまったほうが気持ちいいよ〉〈親父さんのどうしようもないところは、その想像力のなさだ〉って言われちゃうんですよね。作家なのに(笑い)。
作家的想像力はともかく、彼は対人的想像力がまるでない人で、やっぱり人は人と関わらないとダメだと思うんです。食事も食えれば何でもいいとか、生活に何の興味もなかった正吉が智と出会うことで、彼はからあげクンのクンが商品名で、飴ちゃんのちゃんとは違うこととか、自分の外にある世界を少しずつ知っていく。
私の小説はよく『事件が何も起きない』と言われるんですが、『なんで? 起きてるやん』って思う。彼が自治会に出たり、智や近所の〈森川さん〉のために季節限定の〈柚子かりんとう〉や〈カフェオレ大福〉を買おうと思うこと自体、大事件で、そういう小さな変化や発見を、笑える物語として書いていきたいんです」