◆文化系大学生が究極の体育会系へ
──恥ずかしながら僕も美大生だった時、他の大学生のことを「一般学生」と呼んでいました(笑)。美大出身の人にきくと、たいてい身に覚えがあることです。美大生と応援団と一緒にするのもおこがましいですが……。
応援団での肉体派な思い出話が続きますが、岩井社長は元々、小説家や役者を志望していたんですよね。文化系モラトリアムを抱えていた青年が究極の体育会系に進んだキッカケを教えてください。
岩井:当時、学生演劇は革マル派、マルクス派などの思想を演劇表現に反映させるべきだという考え方が主流で、政治色が強かったんですよ。そういったのが苦手だったので、僕は太秦の映画村に通っていました。
──映画と青春って感じですね。
岩井:授業もつまらなかったんですよね。僕が在籍していたのは同志社の中でも一番偏差値が低い学部で。付属高校から出来の悪い人が集まるんです。ショックでしたよ。大学生なのに英語もまともに読めない人でも入学できているんですから! そんな日々のなかで、応援団に見つかっちゃったんですよ。
ある日、あまりにつまらなくて「もうやってられない」と英語の授業を抜け出した時に、学ラン着た応援団に声をかけられたんです。先輩2人に胸ぐらを掴まれて「お前、これ何回生の授業や?」と凄まれたんです。ファーストコンタクトで威圧されて「うわぁ……、応援団だ……」と思ったので咄嗟に「二回生です」と嘘をつきました。でも、先輩は「お前、コレ一回生やろ!」とすぐに嘘を見抜くんです。続けて「男のくせに嘘をついたとはナニゴトじゃ。嘘をついたことを俺らに返せ!」と脅かす(笑)。
その後、先輩と居酒屋に行ってビールを浴びるほど飲まされる。泥酔した頃、一人の先輩が紙を取り出し、もう一人の先輩がカッターナイフで僕の親指をプシュッと切るんです。それで血判ですよ。
──梶原一騎が描く世界や、不良少年にスパルタ教育をする『魁!!男塾』のような、もう劇画の世界ですね。
岩井:そのまま飲み屋で記憶をなくして、朝起きたら、先輩と川の字になって下宿先で寝ていました。僕が「先輩!先輩!」と起こせば「岩井、ようこそ応援団へ」。そこでもう入団決定。自ら応援団に入った人間は、当時の同志社にはまずいなかったです(笑)。
──ある種、思想のために無理をする学生演劇より怖い組織ですね。
岩井:当時の同志社では、多くの学生が自宅から大学に通っていました。でも、応援団は彼らには手を出さないんですよ、親が出てくるから。狙うのは下宿生なんです。
キツい練習をしていたら「辞めたい」と言いたくなるじゃないですか。それに対して先輩はこう言う。「岩井、辞めてもかまへんで。その代わり応援団除名やから、大学も辞めるってことやで。一浪までして入ったのに親は泣くよの~」。当たり前ですけど、嘘です(笑)。でも、世間知らずだったから、新入生だった自分は嘘だと分からなかった。
しかし、あれだけ「辞めたい」と思っていても二回生になる頃には応援団員である自分が好きになっているんですよね。
──とはいえ、応援団は花形ですよね。学生時代の岩井社長って、モテました?
岩井:人生で一番モテました。京都女子大学、京都ノートルダム女子大学、平安女学院短期大学(※当時、現在は平安女学院大学)、この3校に僕のファンクラブがありました。各大学15人~20人のファンがいましたね。当時、学ランを着た硬派な男が好きな女の子がいたんですよ。毎朝、朝食を作りに来てくれる健気な彼女もいました。けど、当時の僕はむちゃくちゃで。毎日違った女性用の靴が玄関にあるといった状態でしたね。
──人生の春ですね、いや違うか。『¥マネーの虎』時代の方がモテましたよね。
岩井:ヨシムラさん、それは違いますよ。『マネ虎』時代にも確かに声はかけていただきました。ただし、それは嫌らしいモテ方。お金を持っていると思われているの、持ってないのに。
銀座に行けば、おねえさんが寄ってきて「岩井さん彼女何人いるの? 3人目にして~」って言われるんですよ。もう女性不信、あれをモテたとは口が裂けても言えないですね。