近頃はネットの「コメント機能」も充実してきた。手軽に利用できるとあって、使う人も増えている。ただ、心得ていたほうがいいこともある。コラムニストの石原壮一郎氏が指摘する。
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21世紀を生きる私たちは、長い人類の歴史のなかでダントツに大量の愚痴や悪口に囲まれて生きています。それは言うまでもなく、ネットやSNSが発達したから。誰もが意見を表明できるようになった利点も、たしかにあるでしょう。しかし、そんなものは軽く吹き飛んでしまう悪影響が、私たちの心や人生を徐々に蝕んでいます。
もちろん、そういうものがなかった昭和までの時代も、人は愚痴や悪口に精を出していました。しかし、聞かせる相手は周囲の家族や知人や同僚であり、そんなことばっかり言っていると嫌な顔をされたり鼻つまみ者になったりするので、ある程度は自制心が働いたものです。しかし、ネットの発達はそんなタガを外してしまいました。
たとえばSNSに実名で愚痴や悪口を書き込むのは、どこかの駅前でメガホンを持って、大勢に向かって悪態をついているのと似たり寄ったりの行為です。しかし、本人にそういう意識はありません。ネットやSNSに愚痴や悪口を書き込むと、どんどんダークサイドに堕ちてしまいます。理由は、次の5つ。
その1「四六時中、愚痴や悪口のネタを探し続けてしまう」
その2「不都合なことに向き合わないので、何も解決しない」
その3「目先の反応が嬉しくて、際限なく先鋭化していく」
その4「自分を『悲劇の主人公』に仕立てるのが上手になる」
その5「知らないうちに『困った人』のレッテルを貼られる」
この段階で「なるほど」と納得した人は、最初からその手のことは書き込まないでしょう。「そんなことあるか!」と反射的にいきり立っている人は、たぶんもはや手遅れ。「えっ、どうして?」と思った今ならまだ間に合う方のために、少し説明させてください。
●その1「四六時中、愚痴や悪口のネタを探し続けてしまう」
愚痴や悪口は、すぐにネタが見つかります。反応もそれなりにいいでしょう。周囲は無責任に慰めたり同意したりするので、「自分は正しい」と思い込むことも容易です。そんな快感に溺れて、何度もその快感を味わいたくて、朝から晩まで「なにか愚痴や悪口のネタはないか」と探し続けてしまう体質に……。他人や物事のいいところではなく、とにかくあらを探す癖もつきそうです。そういう毎日は、はたして楽しいでしょうか。
●その2「不都合なことに向き合わないので、何も解決しない」
愚痴や悪口は、吐いた瞬間はスッキリすることができます。しかし、根本的に何かが解決したわけではありません。強引に自分を正当化した分、解決から遠ざかっていると言えます。SNSで見かける同僚や上司や配偶者に対する文句は、大半が「こんなところに書いてないで、本人に言えよ」と思えるものばかり。「言えないから書いているんだ」と反論されそうですけど、言う以外でも何か打てる手を考えたほうが有意義です。