当時、1回中継車を出せば、人件費を含め100万~300万円掛かった。それでも、弟子丸氏は赤字になることも厭わなかった。
〈スタッフは歌を素材とする報道番組と考えていますから、ナマ中継による臨場感を落とすわけにはいきません〉(読売新聞・昭和53年6月16日付)
昭和58年3月31日、『ピエロ』で2位にランクインした田原俊彦は倉敷でのコンサート終了後、岡山発19時23分の最終新幹線で東京へ向かった。スケジュールの都合で途中下車できないため、名古屋駅に停車する2分を使って、車内から『ピエロ』を歌った。2番のサビに差し掛かる頃、列車が動き出すと、田原は「あ!」「ダメだぁ~」「さよなら~!」「見えないよ~」と絶叫。司会の久米宏が「新幹線で歌った気分はどうでした?」と聞くと、「もう、最高ですね(笑)」と吹き出しながら答えた。
どんな状況になろうとも、生中継で歌ってもらおうとする製作陣の熱意が視聴者に伝わった。『ザ・ベストテン』でディレクターを務めた田代誠氏はこう話している。
〈リアルタイムで本人の歌を届けることを追求していくと、おのずとそうなってしまうんですよね。新幹線のダイヤはハッキリしているので、ホームの外から電波を飛ばして、音が続くまで放送する。途中で歌は切れるけど、それはもう仕方ない〉(書籍『田原俊彦論』・平成30年6月発行)
自分たちが一度決めたルールを、どうすれば守れるかのみを考えた。初志貫徹の徹底が番組を伝説にした──。
●文/岡野誠:ライター・データ分析家・芸能研究家。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題。同書には、初公開となる『ザ・ベストテン』の歌手の年別ランキングデータや、田原俊彦の1982年、1988年の全出演番組を視聴率やテレビ欄の文言などとともに記載しており、巻末資料を読むだけでも1980年代の芸能界が甦る。