清にとって、最も色濃い負の側面は、1991年に起きた東京佐川急便事件だ。発端は、次期首相の有力候補だった竹下登が恩義のある田中角栄を裏切ったとして、右翼団体が1987年、竹下への褒め殺しを繰り返した。
それをやめさせるのに、東京佐川急便の渡辺広康社長が仲介した。その過程で、東京佐川急便から竹下の腹心である金丸信に5億円が闇献金として渡ったため、金丸は議員辞職に追い込まれる。加えて、東京佐川急便の5000億円を超える不正融資が発覚しグループの経営は一気に傾く。
清自身に嫌疑はかけられなかったが、経営陣を刷新するためとして、経営の第一線から退き、不遇をかこちながら2002年に鬼籍に入る。
清の功績を語る上で忘れてはならないのが、今日の宅配便のビジネスモデルを作ったという事実である。
宅配便はヤマト運輸の小倉昌男が作ったというのが通説となっている。しかし、宅急便を始める前、小倉が熱心に佐川急便を研究していたことは、ヤマト運輸の第5代社長を務めた有富慶二が、私の取材に「小倉さんは佐川急便の小口配送を研究したと思います」と認めている(拙著『仁義なき宅配』で詳述)。
清の始めた飛脚便は、日本のビジネスを大きく変えた。出荷の翌日に必ず荷物が届く飛脚便のおかげで、卸や街角の小売り業者は余計な在庫を持たず商売することができた。売れるものを売れるときに発注して、翌日、佐川急便が届けてくれることで、日々の商売の見通しを立てることができるようになった。
それが広く普及した現在、年間40億個超を運ぶ宅配市場に成長し、ネット通販を含め日常生活に不可欠なライフラインになった。
※週刊ポスト2019年11月8・15日号