「就職は完全に氷河期でした。山一ショック(※1997年11月に山一證券が経営破綻したことで起きた不況)真っ只中ですね。私はマスコミ、出版に絞って就職活動をしましたが全滅でした。国公立なのに、うちの大学の就職実績はひどいものでした。社学や人科でも早稲田に行っとけばと悔やみましたよ。出版は早稲田閥でしょう」
確かに出版関係者に早稲田OBは多いが、それだけで出版社に入れるわけでは当然ない。君野さんは悪い人ではないのだが、学歴の話となると不躾でいろいろズレている。編プロでもこの悪い癖が出て専門学校卒の上長に嫌われた。
「就職浪人なんてとても出来ないので、出版に近いということで書店も受けました。それで入社したのが、関東を中心に展開していた中堅書店チェーンです」
しかし君野さんが望むような仕事はなかったという。
「街道沿いの書店に配属されましたが、本を扱うというだけの肉体労働、小売りです。大量の本を運ぶから腰は痛めるわ、レジで立ちっぱなしだわで最悪でした。うちはビデオレンタルやゲームの販売もしていたので本屋さんなのかビデオレンタル屋さんなのかゲーム屋さんなのか自分でもわかんなくなりました。社員もバイトもあまり本好きはいなかったと思いますし、ビデオやゲームは客筋が悪くてガキもむかつく。万引きはしょっちゅうでした。山積みになったエロビデオをレンタルケースに差していると、名門公立高校から国公立大学まで出て俺は何をやってるんだ、と頭がおかしくなりそうでした」
それは露骨に態度にもあらわれていたのだろう。どの店でも厄介者扱いだった。それでも母親のために3年勤めたという。母子家庭の君野さんにとって母親は特別だ。こんな君野さんだが、40歳を過ぎたおっさんの今も変わらず愛してくれている。当時も悲しませたくなかったそうだ。しかし同僚にも客にも我慢の限界と退職した。
「2001年ごろでしたね。あのまま書店の店長なんてまっぴらですよ」
実は君野さん、その書店時代に小説を書いて新人賞に応募したこともあったという。
「かすりもしませんでした。そっちの才能はないですね」
こうして書店を退職した君野さんは出版社の中途採用も受けたが、ことごとく落とされた。
「やっぱ東京に住んでないと駄目みたいで、書店時代に貯金もしていたのでその金で上京しました。母親を置いてくのは辛かったですが、理解してもらいました」