にもかかわらず、内政については「越前以外の者はなるべく使うな」と書いている。進歩的だった孝景ですらそうなのですから、“よそ者”の光秀が認められるのは大変だったと想像できます。
その後、光秀は朝倉家を離れ、足利義昭(室町幕府15代将軍)と織田信長の両方に属する時期を経て、信長に仕えることになります。その後、信長のもとで残した実績からも、光秀が軍事的にも政治的にもものすごい才覚を持っていたのは間違いない。信長は、才能があれば出身にかかわらず重用するという当時としては希有な価値観を持っていた。だからこそ光秀は頭角を現わしていくわけです。
◆秀吉よりも“上”だった
上洛した信長が京の政務に当たらせた4人のなかに光秀は名を連ねます。このうち、光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀は織田家のなかでどんどん出世していきます(もうひとりは中川重政)。大経済都市である京で税を吸い上げるため、信長は期待をかける家臣に京都奉行をやらせ、競わせたわけです。
上洛の3年後、信長は比叡山焼き討ちを実行しますが、このときの光秀の働きにはめざましいものがあった。そのため光秀は比叡山の門前町である坂本に城を建てることを許されます。坂本は京の東の玄関口で、日本海交易による物資が集まる物流の要所でした。
その後、光秀は丹波を平定して亀山を居城にします。亀山は京の西の玄関口。つまり、光秀は京の東と西の玄関口の両方をもらい、京の経済を制する役割を任されたことがわかります。4人の京都奉行で最も信長のお眼鏡にかなったのが光秀だったのです。
加えて、丹波からは京都にいつでも軍勢を送り込める。かつて歴史学研究の権威である高柳光寿さんは「光秀は近畿方面軍の司令官だった」と評していましたが、それは正しい解釈でしょう。