織田家の方面軍は、北陸は柴田勝家、中国は羽柴秀吉、関東は滝川一益、四国は丹羽長秀、そして光秀は畿内を担当している。このうち最も重要なのは畿内ですから、信長が光秀をいちばん信頼していたことは間違いありません。
しかし天正10年(1582)6月2日、明智光秀は京都の本能寺を襲い、信長は自害します。信長旧臣の太田牛一が書いた『信長公記』には、信長が本能寺で光秀に襲われたとき、「是非に及ばず」と言ったと記されています。現代風に訳すなら「しかたがないな」です。
信長は女たちを逃がしてから死にましたが、太田は女たちからそれを聞いたのでしょう。だからこの言葉には臨場感がある。では、この「しかたがないな」をどう解釈するか。
「光秀に抜かりはないだろうから、逃げてもしかたがない。ならばここで死ぬか」という意味か。
それとも「光秀を抜擢して今の地位につけたのは俺なんだから、しかたがない」という意味か。僕は後者なのではないかと思います。
本能寺の変を語る際、「信長が油断した」という表現をする人がいます。しかしいくら警戒しても、親衛隊のトップが裏切ったらどうしようもない。光秀が近くにいるから枕を高くして寝られると思ったら、そいつが裏切ったということですから、信長が手抜かりしていたとはいえないでしょう。
【プロフィール】ほんごう・かずと/昭和35(1960)年、東京都生まれ。東京大学、同大学院で石井進氏、五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。著書に『上皇の日本史』(中央公論新社刊)、『承久の乱』(文藝春秋刊)、『乱と変の日本史』(祥伝社刊)、『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社刊)など。
■構成/内田和浩
※週刊ポスト2020年1月31日号