ライフ

【鴻巣友季子氏書評】瞬間移動装置を導入した難民小説

『西への出口』モーシン・ハミッド・著

【書評】『西への出口』/モーシン・ハミッド・著 藤井光・訳/新潮社/1800円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)

 二〇一〇年代の英米文学は、“政治の季節”を迎えたと言える。一九八〇年代に所謂「大きな物語」が失われ、ミニマリズムの潮流のなかで、小さな憂うつが書かれた。転換点の一つは9.11同時多発テロだ。英米が危機に直面する近年、ディストピア、歴史改変もの、終末世界ものなどが、SFの要素もとりこみながら数々生まれてきた。また、国や言語を越境して英語圏で書く作家の活躍が一層めざましくなったことも作品世界のスコープを広げている。

 パキスタン出身の米作家による“難民小説”である本作は、これらの要素を全て備えた注目作だ。舞台は中東の、ある国のある都市。地名が特定されないことで、読み手は中東全域、ひいては世界の様々な場所を想定して読める。

 広告代理店勤務の若い男性サイードと、保険会社勤務の女性ナディアは、夜間大学のクラスで出会って惹かれあう。しかしついに内戦が勃発し、市民の生活は危機に瀕する。一方、そのころ、オーストラリアのシドニーでは、とある寝室にあるクローゼットの扉の隙間から一人の男が身をよじり出し、開いた窓から外に出ていく。

 遠い場所へ瞬間移動できる謎の扉があるらしい。そんな噂が流れ、サイードとナディアはそれを使って、ギリシャのミコノス島の難民テントシティへ、ナイジェリア人が多く流入するロンドンへ……。しかしそこには、排外主義が吹き荒れていた。ロンドンに流入する人々がいれば、そこから流出する人々もいる。自殺を思い留まり「扉」をくぐった会計士は、ナミビアのビーチに立つ。

 うっすらと漂うユーモアも好ましい。アムステルダムでは、老人の家の庭に突然、トロピカルな出で立ちの男が出現し、老人と男は……。本作がこうした瞬間移動装置を導入したのは果敢だ。ここではないどこかへ逃れていく道程が“難民小説”の核心でもあるのだから。そして、それは、見えない無数の〈中略〉によって成立している小説の黙契に対する挑戦でもあるだろう。

※週刊ポスト2020年3月13日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

憔悴した様子の永野芽郁
《憔悴の近影》永野芽郁、頬がこけ、目元を腫らして…移動時には“厳戒態勢”「事務所車までダッシュ」【田中圭との不倫報道】
NEWSポストセブン
現行犯逮捕された戸田容疑者と、血痕が残っていた犯行直後の現場(左・時事通信社)
【東大前駅・無差別殺人未遂】「この辺りはみんなエリート。ご近所の親は大学教授、子供は旧帝大…」“教育虐待”訴える戸田佳孝容疑者(43)が育った“インテリ住宅街”
NEWSポストセブン
近況について語った渡邊渚さん(撮影/西條彰仁)
【エッセイ連載再開】元フジテレビアナ・渡邊渚さんが綴る近況「目に見えない恐怖と戦う日々」「夢と現実の区別がつかなくなる」
NEWSポストセブン
大阪・関西万博を訪問された愛子さま(2025年5月8日、撮影/JMPA)
《初の万博ご視察》愛子さま、親しみやすさとフォーマルをミックスしたホワイトコーデ
NEWSポストセブン
『続・続・最後から二番目の恋』が放送中
ドラマ『続・続・最後から二番目の恋』も大好評 いつまでのその言動に注目が集まる小泉今日子のカッコよさ
女性セブン
事務所独立と妊娠を発表した中川翔子。
【独占・中川翔子】妊娠・独立発表後初インタビュー 今の本音を直撃! そして“整形疑惑”も出た「最近やめた2つのこと」
NEWSポストセブン
名物企画ENT座談会を開催(左から中畑清氏、江本孟紀氏、達川光男氏/撮影=山崎力夫)
【江本孟紀氏×中畑清氏×達川光男氏】解説者3人が阿部巨人の課題を指摘「マー君は二軍で当然」「二軍の年俸が10億円」「マルティネスは明らかに練習不足」
週刊ポスト
田中圭
《田中圭が永野芽郁を招き入れた“別宅”》奥さんや子どもに迷惑かけられない…深酒後は元タレント妻に配慮して自宅回避の“家庭事情”
NEWSポストセブン
ニセコアンヌプリは世界的なスキー場のある山としても知られている(時事通信フォト)
《じわじわ広がる中国バブル崩壊》建設費用踏み倒し、訪日観光客大量キャンセルに「泣くしかない」人たち「日本の話なんかどうでもいいと言われて唖然とした」
NEWSポストセブン
ラッパーとして活動する時期も(YouTubeより。現在は削除済み)
《川崎ストーカー死体遺棄事件》警察の対応に高まる批判 Googleマップに「臨港クズ警察署」、署の前で抗議の声があがり、機動隊が待機する事態に
NEWSポストセブン
北海道札幌市にある建設会社「花井組」SNSでは社長が従業員に暴力を振るう動画が拡散されている(HPより、現在は削除済み)
《暴力動画拡散の花井組》 上半身裸で入れ墨を見せつけ、アウトロー漫画のLINEスタンプ…元従業員が明かした「ヤクザに強烈な憧れがある」 加害社長の素顔
NEWSポストセブン
趣里と父親である水谷豊
《趣里が結婚発表へ》父の水谷豊は“一切干渉しない”スタンス、愛情溢れる娘と設立した「新会社」の存在
NEWSポストセブン