「好き嫌い」が「正邪」の判断に転換する
江川:また、小林さんは戦争で亡くなった日本兵についても書いています。彼らのように国のために命をかけた人は「個」が確立されていて、オウムや左翼は「個」が確立されていないと言う。しかし、これは後付けだと私は思います。つまり、小林さんは日本兵の自己犠牲の物語に感動したんでしょう。小林さんにとっては、その思いや気持ちが大切なのだけれど、ご自分はそういう感情だけで動かされているんじゃないと言いたくて、理屈づけが必要だったのかな、と。
石戸:思いや気持ちを重視する点は、百田現象や安倍政権の支持者とつながってきますね。
江川:小林さんも、そういう思いを大切にする人です。百田さんと同じく、好きか嫌いかという思いが、正しい、正しくないという正邪の判断に容易に転換しがちな人なんですね。
石戸:小林さんと百田さんはともに自分の気持ちに正直な人ですが、決定的に違うのは、小林さんは自分が書いたものに対する責任を感じているところだと思います。『戦争論』などを書いて、ネトウヨ的な人を呼び寄せてしまったかもしれない。そういう人たちに対して、なんとかして引き戻したい、あるいは別の物語に接続させたいと感じているところがある。
江川:小林さんは理屈づけを必要としているだけあって、時々立ち止まって自分をある程度客観視して考えようとされるんじゃないでしょうか。そこが百田さんとは違う気がします。百田さんは、石戸さんの本でも語ったように、思ったことを言っているだけなのに何が悪いのか、ということになる。どこまでも「思い」が大事。それが何をもたらしたのか、といった考察が見られない。だけど、自分が放ったもの、あるいは自分が耕したところに生えているものについて、しっかり見て、自分がそれに果たした役割を考察することは大切だと思うんです。
石戸:百田さんは僕のインタビューに「政治的な影響力を持ちたいと思ったことはない」と答えました。名誉毀損が確定した『殉愛』についても、「申し訳なかった」と言いつつ、「一回書いて世に出てしまったものはしょうがない」という言い方をする。一見すると潔いのですが、しかし、言論の責任感という意味では薄い。
江川:百田現象のひとつは「あっけらかん」という言葉で表現できるのかもしれませんね。
※8月22日に収録した対談を再構成しました。