日ハムに入団してからも苦労は続く(時事通信フォト)
3年時の異変が、ハンカチフィーバーの終焉、そしてプロ入り後10年間の野球人生に影を落とす要因となっているのではないかというのが私の見立てだ。それを應武に尋ねることが広島に向かった理由であった。
「今だから言える話もある。甲子園でハンカチ王子と呼ばれ出した頃は、“あの身体でプロはないよな”が正直な印象だった。ライバルとされる田中将大(32、ヤンキースから今オフFA)と比べれば、ベンツと軽自動車ぐらい、積んでいるエンジンに差があった。早稲田の学士をとって社会に出ることが彼に相応しい進路だと私は思っていました」
ステップ幅が「6歩半から7歩」へ
2007年1月に初めて斎藤が大学の練習に参加した時、200人の報道陣が早大の安部球場に集結し、一挙手一投足を追った。應武は戸惑った。
「カメラのクルーだけじゃなく、腕を組んで練習を見つめるだけの部長クラスの人まで斎藤見たさにやってきていた。開幕戦の東大戦に起用したのは、東大戦ぐらいは抑えるだろうと思ったから。いわゆる顔見せだった。明治や法政、慶応が相手なら、木っ端微塵にやられるだろうと思っていました。ところが、けが人が出たチーム状況もあり、その後も斎藤を使わざるを得なかった」
ファンと報道陣の期待もあり、簡単には斎藤を休ませることもできない。一方で、良い意味で期待を裏切り白星を挙げ続けた斎藤は大学日本代表にも選出され、海外遠征も続いた。
「そして、3年になると股関節を傷めた。もともと股関節が硬いんです。大学野球で対戦する相手投手は、斎藤よりも大きな投手がほとんど。背が大きければ歩幅も大きく、日本の柔らかいマウンドだとどうしても大きな穴が掘れてしまう。斎藤がそうしたマウンドに上がると、自然と踏み込んだ足が穴で滑るようになり、結果、ステップ幅が拡がってしまうんです」
気付かぬうちにステップ幅が高校時代の6歩半から7歩に広がっていた。それが股関節に負担となっていたのだ。負荷がかからないフォームを、スポーツ科学部で学ぶ学生のトレーナーらと模索するうち、今度は右肩の可動域が狭まり下半身と上半身のバランスを崩した。
「明らかに勤続疲労でした。マスコミも登板を期待するし、本人も『投げさせてください』と言い続ける。私が鬼になって、入学当初から試合に起用せず、下半身強化に時間を割いていれば状況は違ったかもしれない。1年ぐらい肩を休ませても良かった。以降、斎藤は慢性的な股関節の痛みと付き合うことになった」