芸術作品や漫画、小説、映画、ドラマなど、様々な創造物に対して、倫理観や政治信条を理由に“けしからん”と展示や流通を差し止めようとする動きが、SNSなどで度々起きている。それに対して「表現の自由」を守れという声も出るが、その「自由」とはどんなことなのか。評論家の呉智英氏が、本居宣長の歌論から、表現の自由について考えた。
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私が住む名古屋の町角に「表現の自由を守りぬく。」と大書したポスターが目につく。日本共産党のポスターだ。私の評論分野の一つはマンガだが、マンガはこれまでしばしば「表現の不自由」を強いられてきた。警察、婦人団体、教育団体などがその主役で、共産党系文化人もこの風潮に同調的だった。共産主義の本家ソ連、支那、北朝鮮では、そもそも表現の自由など存在しない。
それがなぜ唐突にこんなポスターをと思ったが、併記された「知事リコール運動反対」の一句で理由が分かった。昨年物議をかもした「あいちトリエンナーレ」を巡って、県知事リコール運動が起きたからである。これを批判しているのだ。この運動については別途論じるとして、ここでは表現の自由そのものについて考えてみたい。
表現の自由の本質的根拠って一体何だろう。憲法や人権宣言を挙げる人が多いだろうが、それは法律という「制度」である。これが改廃されたら根拠にはならない。つまり本質的ではないのだ。
我々は健常者であれば足を左右交互に出して歩く。障害があれば足をひきずって歩く。どう歩こうと「自由」である。この自由は法律や制度を根拠にしていない。もともと本質的に自由なのだ。