芸術、すなわち表現行為、表現作品も、これと同じである。芸術は倫理や政治とは別のものなのだ。このことを早くに指摘したのは本居宣長である。宣長の最初期の著作に『排蘆小船(あしわけおぶね)』がある。これは歌論つまり文学論だ。その冒頭にこうある。
まず対論者が問う。
「歌は天下の政道をたすくる道也」、よって単なる娯楽と思うべきではない。どうだろうか。
宣長が答える。
「非也(ちがう)。歌の本体(本質)、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる(人格修養する)ためにもあらず。ただ心に思う事を言うほかなし」
歌・文学・芸術は政治や道徳のためにあるわけではない。
「(歌の中には)政のたすけとなる歌もあるべし。身のいましめとなる歌もあるべし。また国家の害ともなるべし。身のわざわいともなるべし」
歌の中には、確かに政治のためになるものもあるし、教訓となるものもある。さらに「国家の害」となるものもある。ろくでなしになってしまうようなものもある。
それでも「もののあわれ」(心をふるわせる)を感じさせる作品は名作なのた。
私はいくつかの大学でマンガ論の講義をしてきたが、初日は『排蘆小船』だ。受講生は目を輝かせるのが半分、目をつむるのが半分。
宣長は『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』でも同旨のことを述べている。宣長が影響を受けた荻生徂徠も『論語徴(ろんごちょう)』で『詩経』を同じように論じている。しかし、講義ではそこまではやらない。全員が寝るからだ。
ところで、トリエンナーレを批判し知事リコールを叫ぶ人たちは「芸術は国家の害」となることを知らないのだろうか。
【プロフィール】
呉智英(くれ・ともふさ)/1946年生まれ。日本マンガ学会理事。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。
※週刊ポスト2020年12月18日号