巨人とセ・リーグは今こそ奮起を(時事)
「僕らの時代は巨人戦しかテレビ中継がないし、スポーツ紙は1面から5面までセ・リーグの話題ばかりで、パ・リーグは試合結果しか出ていなかった。だから、テレビ中継があって1面に載るオールスターゲームは燃えましたよ。セ・リーグなんかに負けるなと、パのベンチは殺気立ってました(笑い)。セのベンチはお祭りムードでしたね。実際、オールスター3戦で勝ち越すと報奨金が出たほどで、1960~70年代はオールスターではパ・リーグが強くて、“人気のセ、実力のパ”なんて言われましたね。ハングリー精神が違いました」
当時から実力で勝っていたうえに臥薪嘗胆の思いがあったから、今の大きな実力差につながったのかもしれない。では、ほとんど1面に載ることのなかった米田氏の350の勝ち星にはどんな価値があったのか。ご本人の弁はふるっている。
「僕の入団10年目(1965年)に巨人のV9が始まったが、すでに阪急で184勝していた。もし万年Bクラスの阪急ではなくて巨人で投げていたら、カネさんの400勝は抜けたかもしれませんね」
実際、米田氏には1961年オフに王貞治氏とのトレード話があった。この時は阪急側が拒否して成立しなかったが、それからさらに14年間のプロ生活で166勝を積み上げたのだから、偉大な記録である。ちなみに400勝投手の金田氏は、そのV9が始まった年に国鉄スワローズから巨人に移籍したが、引退までの5年間で47勝と、国鉄時代ほどのズバ抜けた成績は残せなかった。その金田氏は生前、こんな言葉を残していた。
「ワシがはじめから巨人で投げとったら600勝していたな。国鉄はゴロを打たれるとエラーじゃったから、勝つためには三振を取るしかなかった」
懐かしいカネやん節だが、金田氏も米田氏も、巨人という球界の盟主に対する反骨心で記録を作った点は共通する。今の巨人やセ・リーグは、新しい盟主となったソフトバンクや、さらに実力差が開いたパ・リーグに対して意地を見せる番だ。