「それなのに、オフの契約更改は荒れました。もともと960万円と安かった横山は1440万円アップの2400万円になりましたが、島田、阿波野、五十嵐は保留。関口は一発サインも現状維持の3800万円。佐々木は1億7000万円アップの5億円なのに、中継ぎ陣は低く抑えられました」
54試合6勝2敗1セーブ防御率2.36の島田は1000万円増の8400万円、50試合4勝1敗0セーブ防御率4.67の阿波野は1600万円増の4000万円、40試合5勝2敗1セーブ防御率2.61の五十嵐は800万円増の6000万円とアップ額は少なかった。
「五十嵐は中継ぎとして異例の3年契約を結び、3人とも出来高払いが付いたとはいえ、納得いかない面もあったでしょう。翌年の成績は揃って悪化。島田、五十嵐は防御率5点台、阿波野は6点台と前年の活躍の面影はなく、チームは連覇を逃しました。オフには、佐々木がシアトル・マリナーズに移籍。年俸が大幅アップしたチームの顔は1年で去り、低額に抑えられた中継ぎ陣は輝きを失った。契約交渉の難航だけが不振に結びつくわけではありませんが、1つの要因にはなったはずです」
翌年、中継ぎの低評価を覆す例が出てくる。中日の新人・岩瀬仁紀は抑えの宣銅烈に繋ぐ中継ぎとしてリーグ最多の65試合に登板し、10勝2敗1セーブ防御率1.57をマーク。11年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
「年俸は1300万円から4200万円に上がりました。前年の新人である高橋由伸(巨人)と同じアップ額で、先発で14勝を挙げた川上憲伸(中日)より100万円少ないだけ。中継ぎが正当に評価され始めた先駆けでしょう。岩瀬は2003年、中継ぎ専門で初の2億円に達した。中日が岩瀬を評価したことで、中継ぎの地位は向上していきました」
2004年の球界再編によって、翌年から交流戦が始まり、ホールドの基準もセパ同じになる。評価がわかりやすくなった同年、阪神はジェフ・ウイリアムス、藤川球児、久保田智之の鉄壁リリーフ陣『JFK』を擁して優勝。日本新記録(当時)の80試合に登板した藤川は最優秀中継ぎ投手(救援勝利7とホールド46、計53ホールドポイント)に輝いた。
「この年はセーブと救援勝利を足した数で決まる『最優秀救援投手賞』が廃止され、単純にセーブ数だけで競う『最多セーブ王』に変わりました。セーブが制定された1970年代から1990年代前半くらいまでは抑えが2~3回投げて、救援勝利を上げることも多かった。しかし、1990年代後半には大魔神・佐々木のように1イニング限定で登板する抑え投手が増えたため、時代にそぐわなくなった。裏を返せば、この改定は中継ぎの存在が無視できなくなったからとも言えます」
藤川はオフの契約更改で2200万円から4800万円アップの7000万円を提示された。これを不服として保留したが、岡田彰布監督の後押しもあって2回目の交渉で、当時の阪神では異例の1000万円アップが追加され、8000万円でサイン。翌年は中継ぎ、抑えで63試合に登板し、5勝0敗17 セーブ30ホールド、防御率0.68という驚異的な安定感を見せ、9000万円アップの1億7000万円となった。