森氏には〈そういうことが伝わると、村山首相は投げ出すと受けとられる〉と分かっていながら、〈過渡的な内閣であり、おのずと仕事に限界がある、ということを吐露されている〉と自ら伝えてしまうという矛盾が生じていた。読売が〈村山首相、退陣意向もらす 「過渡的内閣に限界」 森自民党幹事長ら周辺に〉と見出しを打つなど、各紙とも森氏の発言を取り上げ、大ニュースとなった。
これには与党内から批判が相次いだ。特に、野中広務自治相は手厳しくコメントした。
〈公邸内での話を公の場所で話すのは(問題がある)、しかも最大与党の幹事長というのは誠に重大な責任だ。こういうことをするのは政治家の資質に欠けているとさえ思う〉(1995年5月13日・産経新聞)
森氏は対応に追われ、自らの意図を述べた。
〈「連立の難しさに理解を得たいという趣旨だ」としたうえ、「私が一番強く村山政権を支えている」と述べた〉(1995年5月12日・読売新聞 ※11日の記者会見で)
〈「報道は真意を伝えていない」「村山首相の限界でなく連立の限界を指摘するためのもの」などと、説明した〉(1995年5月13日・朝日新聞 ※12日の総務会などで)
森氏の地元・石川県の地方紙『北國新聞』にはこんな一文も載っている。
〈「軽々に話すような内容ではない。幹事長には狙いがあったはず」と、自民党内では森氏が仕掛けに動いたとの見方も一人歩きしている〉(1995年5月14日・北國新聞)
今思えば、特に狙いはなく、軽々と話してしまったのではないか、とも思える。見方を変えれば、当時は『森氏=失言』のイメージは定着していなかった。地元紙という性質も考慮に入れなければならないが、まだ〈狙いがあったはず〉という予想を書けるほどだったのだ。
この時点で、森氏が幹事長という立場を頭に入れるべきだと思考を変えれば、その後の失言は生まれなかったかもしれない。しかし、森氏は前述のように〈報道は真意を伝えていない〉と不満を持っていた。
その苛々は、年を追うごとに募っていく。自民党、自由党、公明党の連立内閣時代の1999年11月2日、自民党の森幹事長は東京・赤坂プリンスホテルでの懇談会で、次の総選挙について私見を述べた。
〈今の衆院選挙制度ではどんなに努力しても過半数を取るのは難しい。この間取った二百三十九を(次回も)取れるとは毛頭考えられない〉(1999年11月3日・読売新聞)
すると、党内の加藤紘一氏や山崎拓氏、伊吹文明氏などから「過半数を目指すべき」という声が続出。森氏はまたしても弁明に追われた。
〈過半数を求めて努力するのは当然で、講演でもそう申し上げた。一部だけが報道されて遺憾だが、党の皆さんに心配をかけたことはわびたい〉(1999年11月6日・産経新聞)