1989年日本GPで衝突したセナとプロスト(写真=Sutton Motersport Images/AFLO)
「最強エンジン」であるホンダのV6ターボを搭載するマシン「MP4/4」は、F1史上最高傑作とも呼ばれた。自動車評論家で、レーシングエンジニアの経験もある舘内端氏が言う。
「ホンダは石川島播磨重工と組んで、アクセルから加速までの時間差(ターボラグ)が非常に少ないエンジンを生み出しました。また電子制御装置やテレメーターなどデジタル技術もいち早く採用し、データ解析を事細かに行なうことができた。ホンダ・エンジンは、まさに日本人の精緻な技術力の結晶でした。
『MP4/4』を生み出した設計者・ゴードン・マレーの存在もマクラーレン・ホンダにとって大きかった。シャシー(車体)を地面に押さえつけようとする力のことをダウンフォースと呼びますが、彼はその操り方を直感的に理解していた。当時のマクラーレンには、最強のドライバーとエンジン、シャシーが揃っていた」
1988年シーズンのマクラーレン・ホンダは16戦中15勝を達成。イタリアGPで地元のフェラーリが一矢報いた以外、マクラーレンは他を寄せ付けなかった。この「勝率93.75%」は、いまだ破られていない。
セナが8勝、プロストが7勝を挙げ、セナが初のドライバーズチャンピオンに輝いた。
セナとプロストのバトル
しかし、マクラーレン・ホンダが強すぎたことは、ある“副反応”を生み出した。チームメイトであるセナとプロストの熾烈を極めるライバル争いである。
マクラーレンはエースドライバーを決めずに戦う“ジョイントナンバーワン”という体制を取ったが、その結果、2人のバトルが毎回のように繰り広げられた。
1988年の第13戦ポルトガルGPでは両者が幅寄せで妨害合戦。確執が目に見える形となって現われた。シーズンオフには、プロストと懇意のジャーナリストによって「プロストはセナに比べ、マクラーレンとホンダから不公平に扱われている」と報道された。
翌1989年の第2戦サンマリノGPではさらに対立が激化。マクラーレン内には“スタート直後のコーナーまで互いに勝負を仕掛けない”という紳士協定があったが、その解釈が2人の間で異なっていたのだ。