25歳の朝潮(当時は朝汐名。時事通信フォト)
まさに泣きっ面に蜂だが、「身から出た錆」と語る親方も少なくない。「人柄はとても良い半面、若い頃からとにかく苦労知らず」(ベテラン相撲記者)なのだという。
「本人曰く、小学生時代から理数系が得意で、銀行員か教師を目指していたそうです。体格を買われて中学2年の時に相撲部の監督に無理やり出場させられた高知市の相撲大会で準優勝したのが相撲を始めるきっかけ。近畿大学時代の3年、4年と2年連続で学生とアマ横綱を獲得して相撲部屋のスカウトが殺到したが、近大相撲部の監督と当時の高砂親方(元横綱の3代朝潮)が同郷という縁で高砂部屋に入門した」(同前)
入門の理由についてはこんな説もある。
「高砂部屋入りを決めた理由が、部屋所属の幕下の顔ぶれだった。中学や高校から入門する力士にとって、幕下付け出しの学生出身力士は目の敵にされやすい。当時の高砂部屋にはハワイ出身の高見山ら関取はいたが幕下は2人だけで、どちらも年を食ったベテラン。“これならいじめられる心配がない”と思ったのが高砂部屋を選んだ理由だといわれています。
そんな性格の師匠が弟子に厳しくできるわけがない。大相撲入りした時の会見では“今度はプロの横綱を目指します”と大風呂敷を広げて話題を集め、153kgの体躯を活かして番付を上げていったが、幕内に入ると負けが込み始めた」(同前)
それでも大関に昇り詰めたのだから相撲の実力に間違いはなかったのだが、大らかで物事を深く考えない性格は変わらなかったようだ。現役時代から“大ちゃん伝説”は枚挙に暇がない。
「額からガツンと当たるのが身上で、顔面からの流血も少なくない。土俵上で一番血を流した関取とも言われています。ただし“その取り口しかできなかった”からで、稽古ぎらいで有名。大関昇進の伝達式での口上は“大関の名に恥じぬよう、これからも一生懸命頑張ります”だったが、実は前夜に用意していた文句では冒頭に“これまでの10倍稽古に励み”が入っていた。大関になってから記者に突っ込まれるのを嫌がり、本人が直前に割愛したという逸話がある(笑)。
現役時代から“ウケ狙い”の発言が多く、勝ち始めると“サーフィンをやっていたから波に乗るのがうまい”とコメントして記者たちが失笑したこともある。大関時代には“ほたる川”のレコードや、『朝潮太郎・その土俵人生』という写真集も出した。どちらもほとんど売れなかったそうですが」(相撲ジャーナリスト)
親方になってからもマイペースは変わらない。
今回、高砂部屋を継承した朝赤龍が入門してきた時も、「青がいるなら赤でいいや」という理由でしこ名を決めたほど(朝青龍と朝赤龍はモンゴルから共に来日し、明徳義塾高校に入学。入門は朝青龍が1年早かった)。帰国治療する朝青龍の“監視役”としてモンゴルに同行した際はわずか35時間で一足先に帰国した挙げ句、会見で「(治療先は)いい温泉でした」と呑気に説明し、協会幹部や記者をズッコケさせた。