よく似ているのは、盛岡にある「白龍(ぱいろん)」という店のじゃじゃ麺だ。一時期、とても気入っていた。平打麺が特徴で、肉みそが載っており、やはり酢とラー油をかき混ぜて食べる。5分の4ぐらい食べたところで、卵と茹で汁を加えてもらって、卵スープで仕上げる。岩手県はわんこそばや冷麺が有名だが、ぼくはこの変化が楽しめるじゃじゃ麺が好きなのだ。
日本酒の「而今」は入手困難で、なかなか飲めないらしいので、コロナが収束したら、油そばでも食べに行こうか、とO氏たちと話した。
思索にふける末期がん患者過去も、未来も関係ない
緩和ケア病棟を回診しているとき、気になる患者さんに出会った。76歳のAさん。車いすに座って、原稿用紙に書き物をしていた。のぞいてもいいですか、と声をかけると、どうぞと言われた。「想像と集約」と書かれていた。
彼は、東京で技術系の研究者として生きてきたという。研究データが想定外の結果が出た時、どう考えてきたか。マイナスの結果が出ても、条件設定を変えれば、マイナスからプラスになる。絶対的にダメなことなんてない。生きるうえでも、反対方向から見るようにしている。思いがけず、“人生哲学”を聞かせてもらった。
Aさんは、前立腺がんが肺や肝臓に転移していた。命の期限が迫っていることもよく承知していた。はたからみると、泰然としている。
「今、ぼくがこうやって書き残したことを、女房がどうしてくれるかわからないけれど、ぼく自体は今、未来も過去も関係なく、今この一瞬がおもしろくてしょうがない」
彼の言葉を聞きながら、ぼくは「而今」という言葉をかみしめた。
人は過去にとらわれて苦しみ、見えない未来に対して不安を抱く。そんな頭の中の妄想に飲み込まれないために、「今ここにいる」という感覚が命綱になるのだ。