「書くことが私の生活の全てだった」と語った
──今回のオリンピック、テレビでご覧になりますか?
「いや、見ないですね。日本が負けると悔しいですもの。昔から、悲しいお話が嫌いだったんですよ。『母をたずねて三千里』ですか、周りの女の子はみな感激の涙を流していましたが、私は読んでない。評判聞いただけで、嫌なんです」
「ヒーやん」ほか権威のあるものはみなバカにしてた
悲しい話だけでなく、優等生的なものへの苦手意識も感じられる。新刊エッセイにも、「おから」を「卯の花」と上品に呼ぶ友達が出てくる(「ヘトヘトの果」)。
「自分が優等生じゃないからですよ。それだけのこと。相手が『おこんにゃくを煮て』と話しているときに、私のアンテナがパッとキャッチするんです。書けるとか書けないとか、そのときは思いません。ただ蓄えておいて、何かのときに、ふっと出てくるんです。あれは、我ながら不思議ね。作家はみなそうなんだろうと思いますけど。小さいときのことでも、忘れませんね」
「書くのをやめたら死にます」と医者に通告され、娘と孫に、「ホントに死ぬかどうか験(ため)してみるんだよ」と告げる。「もし死んだら、あの世で『当りィ……』といって太鼓を叩くからね」(「さようなら、みなさん」)。老年の寂寥も、自分の死すらもカラっと笑い飛ばすのが、佐藤さんのすごいところだ。
「面白中毒なんです。しみじみ書こうと思っても書けないの。やっぱり、面白さに対する敏感さは父や兄(詩人のサトウハチロー)と暮らすうちに培われたものでしょう。お客さんも多く、朝から晩まで、笑い声が湧いているうちでしたから、そういう家庭に育ったことが大きいんじゃないかしら」
──戦争中、ドイツの首相ヒトラーのことを「ヒーやん」呼ばわりしていたそうですね。
「我々が女学校の頃に日本とドイツとイタリアは三国同盟を結んでヒトラーさまさまだったんですけど、ヒトラーの七三に分けた髪がちょっと額に垂れているのをニュース映画で見て、『ヒーやんの髪は、ちょっとこうやねん』と友達に真似してみせたりしてました。戦争に抵抗していたわけではないけど、権威のあるものはみなバカにしてたんですね。
町内の防空演習が始まると、それまでペコペコしていた電気屋のおっさんが防空団長になって、カーキ色の服を着て、急に威張り出してね。そういう姿も家で真似してました。カリカチュアライズするのが大好きだったんです」
真珠湾攻撃についても、当時、「これって騙し討ちやないのん」と言って、「憲兵に引っ張られるよ」と友達にたしなめられた話が新刊に出てくる(「釈然としない話」)。たしかに、誰かの耳に入ったらエライことになったかもしれない。
「うちの父なんか、真珠湾攻撃に喜んでね。『アメリカの戦艦を片っ端からやっつけた!』と言うのを、母は『いまは勝ってても、地図を見たら、あちらはこんなに大きくて、日本はトウガラシぐらい。勝てるわけないですよ』と言うんです。それでも父は、『女の機嫌ばかり取ってるアメリカのやつに、日本男児が負けるわけがない!』と言ってましたね」
冷静な母と激情の父、どちらの個性も佐藤さんには受け継がれているようだ。
「私の持って生まれた性格は父そっくりの激情家ですが、母から受けた影響もまた大きいと思います。何か問題が起きても割と冷静に状況を見ているのは、母の血だと思いますね。母は女優になり損ねた人で、『あの人はああいう顔をしているけど、心の中は違うことを思ってるに違いない』とか、そういうことばかり言ってる人でしたよ」
◆『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』
『九十歳。何がめでたい』が大ベストセラーになった結果、ヘトヘトの果てになり、ついに昏倒した顛末や、前作でも人気を博した佐藤さんの「勝手に人生相談」、北海道に別荘を建てた裏側にあった仰天エピソード、幼い頃の記憶から断筆宣言まで、佐藤さんが2019年2月~2021年5月まで女性セブンで気まぐれに連載した、ゲラゲラ笑えて深い余韻の残るエッセイを21編収録。
取材・構成/佐久間文子 撮影/江森康之
※女性セブン2021年8月19・26日号