2004年のキャンプでは、英敏さんも大活躍だった
そう言って英敏さんは豪快に笑っていた。
「剛志は何でも“1番”でないと気が済まないところがあるんです。小学校の頃のマラソン大会でも、最初からトップに立ってレースを引っ張るんですが、いつも最後に息切れをして2位になる。それが悔しくてよく泣いていました。最初から最後まで1番でないと気が済まないようで、バカだからとにかく最初から突っ走るんですよ。小学3年生くらいまで同じパターンで負けていたが、私が大濠公園に連れて行って、駆け引きを教えてやったんです。レースの先頭集団についていって、ラストスパートをするタイミングを教えた。それから1番でゴールするようになった。私が教えたのはそれくらいだったと思いますね」
ラーメン屋でジュースだけ
現役時代は「ジーパンが似合わなくなるから下半身の筋トレはしない」という逸話などから、“練習嫌い”のイメージがある新庄氏だが、父の目線から見ると、「他人が見ていないところで努力するタイプ」だと説明していた。
「小学校でも中学校でも、表ではみんなと同じことをやっておいて、陰で隠れて努力していた。学校までの通学路が坂道ばかりだったので、そこをいつもランニングしていましたね。剛志は照れ臭かったのか、“家の手伝い”だと誤魔化していましたが、黙々と(植木の)土を運んでいた。本人はトレーニングのつもりだったと思います。足腰と肩だけは子供の頃からずば抜けていました」
そして食生活に関しても、新庄氏は“超個性派”だったという。
「子供の頃から“体を太くするのではなく、全身筋肉の体をつくりたい”と言っていた。だから太りたくないと言って、あまり量を食べないんです。母親のつくる『きなこ餅』があれば満足していた。あの体は『きなこ餅』でつくった体なんです」
普通なら親がバランス良く食べるように指導するところかもしれないが、英敏さんは、「大人になっても菓子パンだけで満足できるようです。だからアメリカに行っても食事の心配はないですね」と笑い飛ばしていた。
1987年には、甲子園出場経験のある県内強豪の西日本短大附属高校に進学。親元を離れて寮生活が始まったが、食生活は相変わらずだったと英敏さんは振り返っていた。
「寮の食事がまずかったのか、部員はすぐ隣にあるラーメン屋に通い帳(後日払いの品目、金額などを書く帳面)を持って行って食事をしていた。月末に親が精算しますが、他の子の親が5万円とか払っているのに、剛志は1万円にもならない。通い帳には『ジュース』とかしか書かれていなかった。“たまにはホルモンでも食べろ”と言っても、食べないんですよ」