もしも妻に先立たれたら──そんな仮定で人生を考えたことがない人が多いのではないだろうか。ただ、経験者の話を聞くと、長い人生のなかで“その時”に備えておくことが重要だとわかってくる。どのように悲しみを乗り越えていったのか、プロゴルファー・加瀬秀樹氏(62)に聞く。
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1990年代の日本男子ゴルフ界では、AON(青木功、尾崎将司、中嶋常幸)の牙城に、数々の新進気鋭の若手プロが挑んだが、そのなかでも恵まれた体格からのゆったりとしたスイングを武器にしたのが加瀬秀樹プロ(62)だ。
1990年にはメジャー大会「日本プロゴルフ選手権」でツアー初優勝。その20年後、シニアツアーのメジャー大会「日本プロゴルフシニア選手権」では、50歳でシニア入りしてから初めてとなる優勝を飾った。レギュラー・シニアの両ツアーでプロ日本一になったのは、中村寅吉や中嶋常幸など長い歴史で10人しかいない。
18番グリーン上での表彰式の最後、加瀬プロは文子夫人と長男・哲弘くんを手招きし、カメラマンたちのフラッシュを浴びた―─。
「優勝するたびに表彰式で家族一緒に写真を撮ってもらう。それが、自分の励みになってきたことは間違いありません」
そう振り返る加瀬プロだが、悲しい過去もある。1991年に前妻の京子さんを亡くしたのだ(加瀬プロは当時32歳)。
前年の日本プロ優勝で賞金ランク8位となっていたが、1991年は賞金ランク20位、1992年は44位となり、1993年には70位と順位を落としていった。
「前妻を亡くしたのは、『日本プロ』で初優勝し、5年シードで試合に出られるようになった時でした。海外のツアーもエントリーしていて、スケジュールが詰まっていました。そうしたなか、急というか、シーズンオフでしたが、喘息で入院してそのまま亡くなってしまった。まさか命を落とすとは考えてもいなかった。
その時は茫然としていましたが、悲しみを乗り越えるためにとにかくゴルフをするしかなかった。ひたすらボールを打ち込み、練習に明け暮れました。ただ、結果がついてこなかったですね。突然の別れが、ずっと頭の中にあるわけではないのですが、ふとした時に思い出す。ゴルフをするしかなかったのに成績が残せず、1993年には(ランキング50位以内に入れず)賞金シード落ちというどん底に落とされました」