江夏はやんわりではあるが、広岡についてシニカルに答えてくれた。監督の命令は絶対という権限のもとで管理野球を標榜した広岡は現役時代、チャンスで打席に立っていると見も知らないホームスチールのサインが出たことに不服を示して、試合途中で帰った事件があった。巨人V9を達成した川上哲治・監督に堂々と楯突いたのだ。
江夏は、広岡についてあえて何かを語りたいと思っていない。かつて自分の生活を奪われた相手に憤懣の思いがあったからといって、憎いとか許さないとかではなく、“今更”なのだ。
「チームの方針に従わなかったから……」
質実剛健の広岡は、1983年オフに江夏を獲得した経緯についてこう語った。
「管理部長の根本(陸夫)さんが『おいヒロ、江夏をもらい行くぞ』と言うから『もらいに行くのならどうぞ獲ってきてください』と言った。そしたら、柴田(保光)と木村(広)の二人との一対二のトレード。『根本さん、どういうつもり? 他が獲らないからウチでどうにかしようということだと思ってたのに、なんで若手の二人を出すんですか?』と抗議したね。あの時点で江夏はもうダメだった。どこのチームも獲らなかった」
5年連続でセーブ王を獲得していたが、江夏は1984年開幕時点で35歳。広岡はその力が限界に近いとある意味見切っていた。それでもトレーニング次第で、江夏の力を維持できると踏んだ。
羽田空港事件について広岡に問いただすと「きちんと通達したはずだ」とはっきり答える。江夏が「聞いていなかった」と主張する旨を伝えるも「そんなことはない」の一点張りだった。
両者の意見を聞いて思うに、どちらも嘘を言っていないと私は感じた。確かに、広岡は通達したのだと思う。ただ直接ではなくコーチらに“二軍降格”と伝え、どこかで江夏への伝達が遮断されたと推測される。当時、球界最高年俸で現役にしてすでにレジェンドの域にあった江夏を腫れ物に触るような扱いが招いた悲劇だったように思える。江夏について掘り下げて訊いてみると、広岡は訝しがる顔でこう言った。
「キャンプ初日から、チームの方針に従わなかったから……」
移籍を繰り返している江夏は“郷に入れば郷に従う”できちんと従って野球をやっていたが、広岡の眼にはそう映らなかった。江夏と広岡は見解の相違というより、野球に対しての捉え方がそもそも違った。
広岡は、すべてを律し勝利をもぎ取る。いわば人生をかけて野球をやる。
江夏は、男の矜持を武器に投げ勝つ。いわばロマンを求めて野球をする。
いずれも根底には“勝利”がベースとなっているが、振る舞い方が違う。結局、江夏は1984年の1年限りで西武を退団してメジャーに挑戦し、そのまま引退。二人は一度も融合できないまま袂を分かち、それ以来、一度もきちんと会話をしていない……。
◆文・松永多佳倫(まつなが・たかりん)/ノンフィクションライター。1968年、岐阜県生まれ。琉球大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動開始。著書に『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA刊)など。