江夏豊一覧

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広岡達朗氏との確執について語った江夏豊氏
広岡達朗氏と江夏豊氏が語る1984年「羽田空港事件」の真相
 およそ90年を誇る長いプロ野球史の中では、主力選手同士、監督と選手、コーチと選手といった数々の確執が取り沙汰されてきた。なかでも、稀代のサウスポー・江夏豊氏と名将・広岡達朗氏との確執は、今も語り草になっている。広岡氏、江夏氏らレジェンドたちが球界の裏を明かした本『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)を上梓するノンフィクションライターの松永多佳倫氏が、この確執の裏側をレポートする(文中敬称略)。 * * * 1983年オフ、それまで5年連続セーブ王だった江夏豊は、日本ハムから西武へと移籍。しかし西武には1983年に江夏とセーブ王のタイトルを分け合った森繁和がいた。江夏の起用法をどうすべきか──西武の首脳陣を悩ませた。 1イニングずつのセットアッパー、クローザーという戦術がまだ確立していない時代だけに、ダブルストッパー構想が上がる。当時の西武の監督は、管理野球で常勝チームの礎を築いた広岡達朗。「そもそも、唯我独尊の江夏と管理体制を敷く広岡が揉めないわけがない」と、マスコミはキャンプ前から両者を煽った記事を書き続けた。 1984年シーズンは、ペナントの行方もさることながらマスコミは「広岡vs江夏」の勃発をどこか期待している節さえあった。だが、二人はそんな挑発には乗らず、キャンプを無事に過ごし開幕を迎えた。 開幕してから江夏は、長年の勤続疲労のせいか体調が芳しくなく、投げれば打たれる不調が続き、7月12日の登板を最後に胃の検査のため入院した。同月21~24日に開催されたオールスター明けに退院し、練習参加。そして同月26日、遠征のために羽田空港に行った時に事件は起こった。 羽田空港で、江夏は一軍登録抹消を知らされた。何も聞かされていなかった江夏は、一軍ピッチングコーチの八木沢荘六に喰ってかかった。ここから、江夏は二度と一軍に戻ることはなく、広岡と顔を合わせることもなくなった。「なんじゃいそれは!」 江夏は、過去についてとやかく言うことが大嫌いだ。広岡のこともそう。どんなに誘導しても口を閉ざす。それでも意を決して羽田空港事件のことを訊いてみた。「そう、あのときは知らされてなくていきなり空港で言われたから、当時ピッチングコーチの八木沢さんに『なんじゃいそれは!』って怒鳴ったら縮みあがっとったよ」 取材時はいつも穏やかに話す江夏が、臨場感を出そうと「なんじゃいそれは!」の台詞に抑揚を入れて発し、半端じゃない迫力が襲った。「あの人(広岡)が直接、何かを言うってことはなかったから。まあ、キャンプ時から帽子を被れ、玄米を喰えとか決めてきて、『俺らは高校生とちゃうぞ』って不満はあった。それにあの人こそ、監督批判して試合中に帰った第一号だからな」 江夏はやんわりではあるが、広岡についてシニカルに答えてくれた。監督の命令は絶対という権限のもとで管理野球を標榜した広岡は現役時代、チャンスで打席に立っていると見も知らないホームスチールのサインが出たことに不服を示して、試合途中で帰った事件があった。巨人V9を達成した川上哲治・監督に堂々と楯突いたのだ。 江夏は、広岡についてあえて何かを語りたいと思っていない。かつて自分の生活を奪われた相手に憤懣の思いがあったからといって、憎いとか許さないとかではなく、“今更”なのだ。「チームの方針に従わなかったから……」 質実剛健の広岡は、1983年オフに江夏を獲得した経緯についてこう語った。「管理部長の根本(陸夫)さんが『おいヒロ、江夏をもらい行くぞ』と言うから『もらいに行くのならどうぞ獲ってきてください』と言った。そしたら、柴田(保光)と木村(広)の二人との一対二のトレード。『根本さん、どういうつもり? 他が獲らないからウチでどうにかしようということだと思ってたのに、なんで若手の二人を出すんですか?』と抗議したね。あの時点で江夏はもうダメだった。どこのチームも獲らなかった」 5年連続でセーブ王を獲得していたが、江夏は1984年開幕時点で35歳。広岡はその力が限界に近いとある意味見切っていた。それでもトレーニング次第で、江夏の力を維持できると踏んだ。 羽田空港事件について広岡に問いただすと「きちんと通達したはずだ」とはっきり答える。江夏が「聞いていなかった」と主張する旨を伝えるも「そんなことはない」の一点張りだった。 両者の意見を聞いて思うに、どちらも嘘を言っていないと私は感じた。確かに、広岡は通達したのだと思う。ただ直接ではなくコーチらに“二軍降格”と伝え、どこかで江夏への伝達が遮断されたと推測される。当時、球界最高年俸で現役にしてすでにレジェンドの域にあった江夏を腫れ物に触るような扱いが招いた悲劇だったように思える。江夏について掘り下げて訊いてみると、広岡は訝しがる顔でこう言った。「キャンプ初日から、チームの方針に従わなかったから……」 移籍を繰り返している江夏は“郷に入れば郷に従う”できちんと従って野球をやっていたが、広岡の眼にはそう映らなかった。江夏と広岡は見解の相違というより、野球に対しての捉え方がそもそも違った。 広岡は、すべてを律し勝利をもぎ取る。いわば人生をかけて野球をやる。 江夏は、男の矜持を武器に投げ勝つ。いわばロマンを求めて野球をする。 いずれも根底には“勝利”がベースとなっているが、振る舞い方が違う。結局、江夏は1984年の1年限りで西武を退団してメジャーに挑戦し、そのまま引退。二人は一度も融合できないまま袂を分かち、それ以来、一度もきちんと会話をしていない……。◆文・松永多佳倫(まつなが・たかりん)/ノンフィクションライター。1968年、岐阜県生まれ。琉球大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動開始。著書に『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA刊)など。
2022.04.16 07:00
NEWSポストセブン
広岡達朗氏との確執について語った江夏豊氏
江夏豊、伝説のホームラン秘話「いまだに王さんに打たれたシーンが浮かぶ」
 昭和の大投手・江夏豊は、今でも昭和46(1971)年に王貞治から打たれた逆転ホームランが忘れられないという。あれから半世紀。「宿命のライバル対決」を、江夏本人が振り返った。【前後編の前編】 * * *ラジオをぶっ潰した 常に熱気を感じていたよ。真剣勝負を戦う男のね。 昭和42(1967)年に入団して18年間現役生活を続けたけど、時代時代にいろんな好打者がたくさんいた。あらためて自分の現役生活を振り返ってみて、最高、最強の強打者って聞かれれば、やっぱり、王(貞治)さん。全盛期に勝負ができたっていうのは、ほんとにピッチャー冥利に尽きると思う。 王さんとは年齢で8つも違うんだけど、自分が王さんとライバル関係に入り込んだのは、やっぱり長嶋(茂雄)―村山(実)の対決があったから。自分もあんな対決をしたいと思わせてくれたライバルは、王さんしかいなかったね。 まだ868本の世界の王じゃなくて、「日本の王」、「巨人の王」という時代やったからね。そういうときに、村山さんから「おれのライバルは長嶋だから、豊、おまえは王だ」と言ってもらえたことも糧になった。 王さんとの初対決は三球三振だった。正直、何で打てないんだろうって思ったよ。 急遽、巨人戦で先発の村山さんがトラブルで3回から登板し、ミスターとの初打席は凡打。だけど、次の打席で打たれて、ミスターがセカンドベースに滑り込んだとき、ピッチャーのほうも見ずに知らん顔で、ユニフォームをはたいてるわけ。それをマウンド上から見て「かっこいいな、これが長嶋茂雄か」と。 そう思ったら駄目よ。そこから長嶋ファンになってしまった。ミスターと勝負して抑えても嬉しくないし、打たれても腹が立たない。これがミスターの特徴かもしれないけど、そういう方やったよ。 王さんは、目ん玉をむき出して向かってきて振っても振っても当たらない。打たれたミスターが凄いバッターで、打てなかった王さんがそうでもないってことではない。凄いバッターっていうのは、空振りの三振に打ち取ってもスイングの凄さが伝わってくる。案の定、王さんには次の試合で打たれた。 昭和40年代のはじめのころの野球ファンの気質も、今とはまったく違う。昔の長嶋ファンは、極端な話、巨人が負けたって長嶋さえ打てばいいんだから。おれの人生は長嶋茂雄なんだっていうファンの方がたくさんいたわけ。 それくらい、寝食を忘れるくらい熱中してくれていた。今、そんなことを言うファンの人っていないでしょ。 そこに加えて、巨人―阪神戦は熱狂させるに申し分のない大注目のカードだった。今から420年前、関ケ原の戦いで徳川家康の東軍と石田三成の西軍との合戦から東西のライバル意識が始まったんじゃないかなと思う。かつては巨人ファン、または阪神ファンが応援してるチームが負けると、ラジオをぶっ潰したり、お膳をひっくり返すとかしていた。娯楽が少ない時代だったから、そこまで心血注いで熱中できたんだよね。流し打ちは一度もない 入団した年は巨人がV3に向けて爆進中で、ONが全盛期に差し掛かっている時期。巨人には、王貞治よりも長嶋茂雄の存在が大きかった。ものが違うミスターがいたからこそ、王さんも「日本の王」から「世界の王」へと羽ばたくことができたと思う。だからこそ、オレは立ち向かってライバル意識を持った。 ライバルって言うと、相手チームのイメージがあるけれど、おれにとってブチ(田淵幸一)もライバル。どっちがミスタータイガースの勲章をもらうのかという部分があって、おれが投げる、あいつが打つ。いい仕事をしたほうは必ず翌日の新聞一面に掲載される。おれが投げているとき、ブチも必死になっとった。チーム内で切磋琢磨するライバルだよね。 自分がライバルでもあり、目標に定めていた人は村山さん。この人がいなかったら、おれはもっと違った野球人生を送っていた。今あるのは、あの人のおかげだから。阪神に入ったころ、村山さんの一挙一動を、グラウンドだけでなく私生活も注視していた。キャンプだとほぼ四六時中一緒にいるので村山さんがどういうふうに過ごすのか、どんな食べ方をするのか、と追いかけていたのを覚えてる。それぐらい目標やった。 とてつもなく大きく、強く、眩しいもの。それが、ライバルなんだ。簡単に倒せるようなライバルじゃつまらんもんね。例えば、一試合で王さんと対戦して、3つ、4つ、三振を取った。一時の勝負で倒すことはできても、大事なところでガーンといかれる。 いまだにおれは寝るときに王さんから打たれたシーンが毎晩浮かんでいる。 並のバッターは、ピッチャーが投げる生きたボールをギューッと強振するバットに当ててパーンと弾く。でも王さんの場合はボールをバットに乗せていくんだ。そのときの光景はいまだに忘れられない。ボールがどんどん伸びている間、ブワーッと外野が追いかけていくわけ。その光景をおれは20回も見ているんだから。 一人のピッチャーが一人のバッターに20本ホームランを打たれるっていうのは、打つほうも打つほうだけど、打たれるほうも打たれるほうだよね。868本のうちの20本はおれが貢献しているんだから(笑)。それだけ数多く勝負させてもらった、イコール、向かっていったという証。おれは精一杯勝負したんだという自負心と共に満足感もある。 指先に乗ったときのボールは王さんも予測できないぐらいの勢いがあったから空振りに打ち取れた。ほかのバッターだと、ちょっと甘いところに入ってもヒットで済むところが、王さんはスタンドまで持っていくパーセンテージが高かった。 そして、王さんの凄さをあらためて感じさせたのは、左方向には打球が行かない。つまり狙わないんだよね。当然、王シフトを敷いて右に寄る守備位置をして三遊間はがら空き。レフト前に打とうと思えば簡単に打てたと思う。でも、それを一切しなかった。自分の調子が良くて、王さんがもうひとつタイミングが合わないときでも、ミート中心のスイングをしたことは一度もなかった。やっぱり、凄いバッターだった。 グラウンドにおいて王さんの偉大なところは、こんな8つも下の若造と勝負するときでも目をくりくり光らせて真剣になって向かってくる。本来なら“こんな若造くらい”って感じで気持ち的に余裕を持って対峙していてもおかしくないのに決してそうじゃない。来た球を必ずライトスタンドに持っていってやるという気迫をメラメラと見せてくる。 昭和43年9月17日、甲子園の奪三振記録の場面なんて、約5万人のスタンドのファン、巨人ベンチ、阪神ベンチ、みんなわかってる。”江夏は王から三振を取りにいってる”と、見え見えの三振狙いをみんなが興味を持って見守ってくれていた。 王さんにしたら、最高にプレッシャーだったと思うよ。いいバッターになればなるほど、不名誉な記録を残したくない。バットを短く持って当てに来てもいいのに、王さんは1回もしなかった。すべてフルスイング。あらためて王さんの偉大さを心に刻印され、この人と勝負ができる喜びに浸り、おれにとって最高のライバルやと実感した。 プライベートでほとんど絡んだことがないけれど、一度王さんに頼み事があって連絡したことがあった。かつて王さんが使っていた、バット職人の石井順一さん製造の圧縮バットをもらいたくて午前中に電話したら「わかった」って言ってくれて、昼過ぎにわざわざ家の前まで持ってきてくれた。本当に誠実な人だよ。(後編につづく)聞き手・構成/松永多佳倫(まつなが・たかりん)/ノンフィクションライター。1968年、岐阜県生まれ。琉球大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動開始。著書に『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA刊)など。※週刊ポスト2021年12月3日号
2021.11.22 07:00
週刊ポスト
「いまだにおれは寝るときに王さんから打たれたシーンが毎晩浮かんでいる」
江夏豊が明かす王貞治の逆転3ラン マウンドから見えた「王さんの涙」
 昭和の大投手であり、王貞治と「宿命のライバル対決」を繰り広げてきた江夏豊。さまざまな勝負を挑み、時に大きな一発も浴びてきた江夏が、その対決や王貞治について振り返った。【前後編の後編】 * * *王さんの涙 忘れられないホームランといえば、昭和46年9月15日、甲子園の阪神-巨人24回戦の9回逆転スリーラン。最終回、ランナー二人を塁に置いている場面で、王さんに回ってきた。このとき王さんは3打席まで3三振で、「相当、苦しんでるな」ってマウンド上で思ったくらい調子悪かった。 キャッチャーのダンプ(辻恭彦)さんがマウンドに2回か3回来て「豊、カーブを放れよ」って念を押して言うのよ。今の王さんにカーブを放れば三振を取れるとわかっていても、王さんから三振を取るときはストレートで取りたい。それがライバルに対しての敬意。カーブで殺すんじゃなしに、真っ直ぐで殺してあげたいと。 当たり自体は決して良くなく、打った瞬間ライトフライやと思った。ライトの藤井栄治さんがラッキーゾーンの金網によじ登ってグローブの何センチか上をかすめてのホームラン。おれだって現役時代、299本打たれているんだけど、その中でも忘れることのできない思い出だよね。 ダイヤモンドを回っている王さんが涙を浮かべているのが、マウンド上からわかった。後で王さんからも聞いたけど、泣いていたらしい。王さんも、あのホームランは生涯のうちに忘れることができない1本って言ってる。 反対に、王さんの調子が良くて、こっちの調子が悪いとき、いろんな手を使った。その中でも忘れられないのが、ノースリーの投球。わざとノースリーに持っていき、4球目にストライクを取って5球目が勝負。自分でそういう配球を考えた。 ノースリーに持っていったとき、王さんは「豊、調子が良くないな」って思っている。おれにとって王さんはライバルでもあり特別な人だから、普通の勝負ではダメなんだ。いくら調子が悪くても何とかして抑えるために、自分の持っている現状の力をどうやって生かすか、ほぼ毎日考えていた。必ず寝るときに、いろんなことを思い出して頭の中でシミュレーションした。昭和という時代に感謝 ライバルっていうのは理屈じゃないんだよね。人間の能力以上に何かが動く。一番難しいのは、人間が勝負する中で相性というのがある。この相性がなぜ生まれるかは、IT時代においても明確化されていない。なぜかというと、感情の問題だから。感情まで人間の数値は出てこないからね。おれはこういう勝負ができるんだ、こいつは苦手だなというものが働く要素として一番大きいのが相性なんだ。 ライバルにおいても相性が出てくる。相性は、1回2回の対決じゃ生まれない。数多く対決した中で、何かが浮かび上がってくる。それが感情であり、好き嫌いや得手不得手な部分によって左右されてくる。だから勝負ごとは難しく、また面白い。 今の球界を見ていて、かつての火花を散らすライバル関係があまり見当たらない。ライバルといえば一つは目標なんだから、目標にする人を自分の中で明確化するべき。この人は2割8分しか打ってないけど、なんか惹かれるものがある。自分にはない光っている部分がある。自分もああいうバッターになりたいという人を見つける。そういうのを見抜く力も技術のうちだから。 もし王さんというライバルがいなかったら寂しかっただろうね。生きていく上で、ライバルがいるかいないかは大きな違いがあると思う。 自分がここまでになれたのは、いろんな諸先輩の手助けもあったと思う。昭和という時代が作ってくれた王さんというライバルにもミスターにも感謝してるし、いい同僚にも恵まれた。いい時代だったよね。聞き手・構成/松永多佳倫(まつなが・たかりん)/ノンフィクションライター。1968年、岐阜県生まれ。琉球大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動開始。著書に『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA刊)など。※週刊ポスト2021年12月3日号
2021.11.22 07:00
週刊ポスト
「週刊ポスト」本日発売! 知られざる東京23区の格差ほか
「週刊ポスト」本日発売! 知られざる東京23区の格差ほか
 11月19日発売の「週刊ポスト」は、新しい時代を元気に生き抜くお金と健康のプレミアム特大号。政府の経済対策が急ピッチで進められ、企業業績はV字回復している日本だが、庶民の生活実感はまだそこまで明るくはない。成長に乗り遅れない7つの知恵を紹介するとともに、2年近いコロナ禍で懸念される「隠れがん」への警告ほか、読者の命と財産を守る企画が目白押しです。とっておき美女の袋とじグラビアも必見!今週の見どころ読みどころ◆<復刻インタビュー>ビッグボス・新庄の父が語った「交通事故8回の息子」ビッグボスこと新庄剛志・日本ハム監督の亡き父は、生前、何度も本誌インタビューに答えて、「宇宙人」と呼ばれた息子について語っていた。「マラソン大会では最初から飛ばして最後に抜かれて2位」「子供の頃に8回も交通事故に遭った」「嘘の『父危篤』で阪神退団を阻止」「日本球界復帰はいいが、巨人・阪神はダメ」など、今読んでも「さすがビッグボス」と納得のエピソードが満載。◆<巻頭特集>日本の景気は絶好調! 大波に乗る「7つの方法」2021年度上半期の上場企業利益は前期比で2倍以上に膨らんだ。株価は上昇、小売りや飲食店にも客が戻ってきた。この景気回復は本物なのか、いつまで続くのか? 専門家の見通しはもちろん、「株価」「Go Toトラベル」「ワクチンパスポート」「マイナポイント」など、7つのテーマで「恩恵を受け尽くす知恵」を紹介する。◆<瞠目リポート>東京23区には、実はこんなに「都内格差」があった話題書『東京23区×格差と階級』の著者、橋本健二・早稲田大学教授とともに、実は日本一の格差社会である東京の真の姿を明らかにする。23区内の所得格差は東京と沖縄より大きく、都心、下町、山の手で町の様子も住む人も生活もまるで違うことがマップとともに解説される。23区は10のエリアに大別され、それぞれ特徴が違う。金持ちが多い区は、予想通りのところ、予想外のところが挙がった。◆四冠・藤井聡太が負け越している「天敵」の驚くべき戦法天敵と言われた豊島政之・竜王を4連勝で破って史上最年少の四冠に輝いた藤井聡太。そんな藤井が1勝3敗と2番負け越している唯一の棋士が深浦康市・九段だ。深浦の打ち筋はとにかく積極果敢、持ち時間もほとんど使わず怒涛の攻めを展開する。事前にAIで徹底的に展開を想定し、それに従ってどんどん打つスタイルに藤井は苦戦している。渡辺明・名人との「頂上決戦」とともに、深浦戦も注目される。◆「雑巾がけ」を強いられる「元・白鵬」間垣親方の辛抱の日々大相撲・九州場所で親方デビューを果たした元・白鵬。数々の歴代最高記録を残した大横綱だが、慣例に従って場内警備という地味な担当に回された。親方衆の目は依然として厳しく、「当分は雑巾がけをしてもらう」という敵対的な声も出ている。間垣親方は協会内のイジメに耐えきれるか。◆いよいよ政権奪取に動き始めた「なにわの風雲児」吉村洋文という男総選挙で大躍進した日本維新の会。その次代のリーダーが吉村洋文・大阪府知事だ。これまで国政では「自民党の補完勢力」「野党でも与党でもない“ゆ党”」などと揶揄されてきた維新だが、勢力拡大で自信をつけたと見えて、最近の吉村氏は憲法改正などを武器に自公連立に揺さぶりをかけている。永田町では、参院選→統一地方選→次期総選挙を経て、維新が自公から政権を奪うのでは、というシナリオがまことしやかに語られ始めた。◆<インタビュー>江夏豊「今も王貞治に打たれた逆転ホームランの夢を見る」半世紀前、プロ野球には球史に残る名勝負を演じた伝説のライバル関係がいくつもあった。ことにライバル球団として人気を二分した巨人と阪神の戦いでは、宿命のライバルたちが熱い対決を繰り広げた。阪神のエース、村山実は長嶋茂雄とライバルだったし、村山の跡を継ぐエースとなる若き江夏豊は王貞治と名勝負を重ねた。その江夏が、当時の勝負の裏と王との交流を語った。◆<警告特集>「隠れがん患者」4万5000人を救え!コロナ禍の診療控え、健診控えで日本のがん患者が“急減”している。もちろん、本当に患者が減る理由はない。つまり、「見つかっていないがん患者」が増えているわけだ。その数、専門機関の推定で4万5000人。どのような人が、これからどんな検査を受ければよいのか、もしものために健康保険や医療保険で知っておくこと、やっておくこと、さらに黒沢年雄、竹原慎二が「がんにかかってわかったこと」を告白する。◆「おでん」で命を落とす恐怖&そうならないための「のどを鍛える体操」高齢者の「窒息」「誤嚥」といえば「餅」を連想する人が多いかもしれないが、実はこれからの季節、もっと危険なのが「おでん」だという。実際、おでんによる窒息事故や誤嚥性肺炎は非常に多い。なぜそうなるかのメカニズム、防ぐための調理法・食べ方、そして、専門医が考案した「のどを鍛える体操」を紹介する。◆ED治療の名医が考案した「びんびんになる3つの体操」大公開好評のED治療最前線リポートでは、薬や直接的な治療に頼らない方法を紹介する。わずかな時間で負担なくできる簡単な体操で、男性器の機能は回復させることが期待できるのだという。◆日活ロマンポルノ「思い出の女優アンケート」結果発表!カラーグラビアで日活ロマンポルノが復活する。風祭ゆき、寺島まゆみ、小川美那子による「同窓会」や、常連男優だった風間杜夫のインタビューに加え、本誌読者1300人に聞いた「思い出の女優ベスト30」を発表する。3位は「風祭ゆき」、2位は「美保純」そして第1位に輝いたのは「団地妻シリーズ」で人気を博したあの人だった――。◆<グラビア・ルポ>すごいぞ! ゲームの達人おじいちゃん、おばあちゃんテレビゲームが「eスポーツ」と呼ばれるようになり、もはや世界で老若男女がスマホやPCでゲームで楽しむ時代だ。最近では、各種の大会で活躍したり、プロとして賞金を稼ぐ高齢者が急増している。趣味として、はたまた仕事として、第二の人生をゲームに懸けるおじいちゃん、おばあちゃんの戦う日常に迫る。◆<大好評につき、おかわり特集>UFOも宇宙人も実在する!本誌11月5日号グラビアで特集した「UFOは実在する!」が、編集部もびっくりの大反響だった。今も昔も宇宙への畏怖と憧れは人を惹きつけて離さない。熱いリクエストに応えて第2弾をお送りする。今回は、オールドファンにはおなじみの「アポロ計画と宇宙人」「火星の巨大人面像」「ナスカの地上絵と宇宙人伝説」「ストーンヘンジ」「モアイ像」など、宇宙人との関わりが指摘された世界の謎に迫った。※全国の書店、コンビニで絶賛発売中!
2021.11.19 07:00
NEWSポストセブン
「週刊ポスト」本日発売! ビートたけし「五輪と戦争」ほか
「週刊ポスト」本日発売! ビートたけし「五輪と戦争」ほか
 7月5日発売の「週刊ポスト」は、グラビアオールカラーの合併特大号。日本医師会も東京の「リバウンド」を宣言し、変異株が広がってコロナ第5波が到来しつつあるなかで、菅政権は天皇の「懸念」さえ無視して五輪開催に突き進んでいる。本誌ご意見番であるビートたけしは、「東京五輪と太平洋戦争が同じに思えて仕方ねえよ」と厳しく指摘した。五輪ばかりではない。菅義偉・首相は国会や国民の議論そっちのけで「女性宮家の創設」に舵を切り、政治もコロナ対策も混沌としている。ニュース、得する情報、そして大豊作のセクシーグラビア満載でお届けします。今週の見どころ読みどころ◆ビートたけし「五輪で経済を回そうなんて時代遅れもいいところなんだっての」「菅さんは、今でも本気で東京五輪は人類がコロナに打ち勝った証になると思ってんのかな?」。たけしの疑問は国民誰もが感じていることだろう。太平洋戦争では、もはや敗戦確実な戦況を、大本営が「勝ってる」と言い張り、それを体制翼賛メディアが国民に垂れ流し続けた。たけしは80年近く前の日本と現代を見比べて、「今回は菅さん自ら本土決戦を望んだわけだからね」と、暗い未来に警告を発した。◆小室圭さんと眞子さま「破談」へ「多くの人が納得し喜んでくれる状況」を結婚の条件にしていた秋篠宮皇嗣は、しかし一方で、憲法に従って本人同士が望むなら結婚を認めるしかないと語ってきた。国民の大半が破談を望んでいるなかで、宮内庁はそうなった場合には「最悪のシナリオ」を招くのではないかと危惧しているという。ニューヨークで弁護士資格を目指す小室さんは、破談になれば法的な権利を主張して、これまでの秋篠宮家とのやり取りも、あの「反論文書」のように暴露するのではないかと恐れられているのだ。かつて皇室では、婚約破棄で現在価値で7億円もの「慰謝料」を払った歴史もある。◆菅首相「五輪後に女性宮家」創設計画菅首相は秋に予定している総選挙では「五輪成功」を看板にし、首相続投が叶えば「女性宮家創設」を2期目の看板にしようとしている。コロナ対策も経済政策も外交も失敗続きだけに、国民の賛成が多いテーマで得点稼ぎしようという算段だ。これには保守派から反発が出ているうえに、愛子内親王の将来に大きく関わるため、天皇、皇后も関心と不安を抱いているとされる。水面下で進む計画の全貌をリポートする。◆さらば、白鵬大相撲名古屋場所の最大の関心事は、6場所連続休場の横綱・白鵬がどのような相撲を見せるかだ。内容と結果によっては引退も避けられない。協会の諮問機関である有識者会議メンバーである作家の阿刀田高氏は、「横綱にふさわしいと言われるような潔い引退をしてもらいたい」と、すでに引退の「中身」にまで踏み込み、好角家のやくみつる氏は、引退会見では「これまで問題となった数々の言動について、その場できちんと自己批判してもらいたい」と厳しい注文をつけた。◆中国の「超高齢化」で世界に降りかかる災厄労働人口が多く、高齢者が少ない状態を「人口ボーナス」と呼び、反対を「人口オーナス」と言う。ボーナス期には経済発展が容易で、オーナスになれば成長は鈍化する。過去30年の中国の急成長は、そのボーナスにすぎない。2050年には60歳以上の人口が5億人に達するとみられ、今後は成長も鈍化し、医療や介護など社会福祉コストが増大する。巨大な国土を支える社会インフラの維持が難しくなり、軍事的野心もついえる近未来を、種々のデータと専門家の分析でシミュレートする。◆大谷翔平が誕生日に「枕」を配るワケ7月5日に27歳の誕生日を迎えるエンゼルスの大谷翔平。その記念に、当日の試合では「大谷ピロー(枕)」なる限定グッズが配られるという。なぜ枕? 大谷と「睡眠」には、深~い関係があった。◆コロナ景気の「年収億超えサラリーマン」200人東京商工リサーチの協力で、最新の「億超えサラリーマン」トップ200を実名公開する。日本人1位は全体4位のソニーグループ会長・吉田憲一郎氏(61)で、年間報酬総額は12億5300万円だった。その他、多士済々の高年収サラリーマンたちの知られざる人脈、趣味、ライバル、挫折の歴史を紹介する。◆断薬の専門医5人が教える「薬のやめ方」歳を重ねれば常備薬がどんどん増えるのも仕方ないのか――。実は、かねて批判のあった「薬漬け医療」は大きく変わりつつある。降圧剤、高コレステロール薬、鎮痛剤、インスリン、睡眠薬などが手放せないと考える人たちには目からウロコの「断薬の新常識」をお伝えする。実は、血圧を正確に自分に測れている人は意外に少ないという驚きの事実も。◆<カラーグラビア>東大卒・諸國沙代子アナ「私の初グラビア」朝の情報番組『す・またん!』で人気の諸國アナが初グラビアに挑戦した。健康的なショートパンツ姿に清楚なブルーのワンピース、ケーキをほおばる可愛らしいポーズなど、初めてとは思えない自然な笑顔がいっぱいです。ご本人は本誌の依頼に、「最初、ドッキリ企画かと思いました(笑い)」とテレつつ、「イケてへん?」と自信ものぞかせた。◆グラビアで振り返る江夏豊「伝説のオールスター9連続三振の真実」今年もプロ野球オールスターゲームが近づいてきたが、数々の伝説のなかでもひときわ鮮明にファンの心に焼き付いているのが1971年7月17日の試合だろう。阪神のエースだった江夏豊は、並みいるパ・リーグの強打者相手に9人すべて三振で切って取った(オールスターでは投手は最大3イニング)。先にも後にも江夏しか達成できていない大記録である。その41球をすべて採録するとともに、江夏本人が当時の心境と戦略を語る。ファールフライを追ったキャッチャーの田淵に「捕るな!」と叫んだとされている伝説は、本人の弁で実は違う言葉だったことも明かされる。◆最後に子供を頼らない! 夫婦で、ひとりで幸せになる準備巻頭特集は、人生の最後に子供を頼って失敗した恐怖のエピソード集。「実家の処分」「生前贈与」「老人ホーム」「看取り」「葬儀の声かけリスト」など、子供の意見を聞いたために自分たちの希望や財産がパアになってしまった悲劇をリポートする。※全国の書店、コンビニで絶賛発売中!
2021.07.05 07:00
NEWSポストセブン
江夏豊のクローザー転身のきっかけは?(写真/共同通信社)
江夏豊 クローザー転身を言い渡してくれた野村監督は「恩人」
 オールスター9者連続奪三振などの大記録を打ち立てた後、“クローザー”に転身した江夏豊(72)。そんな江夏には、後世に語り継がれるべき復活劇があった。 阪神の不動のエースとして君臨した江夏が、南海ホークスにトレードされたのは、1976年1月のことだった。「当時肩痛、血行障害などのケガに加え、心臓にも不安を抱えていた。剛球とスタミナが衰え、阪神では当たり前だった先発・完投は難しい。それでもボール半個をベースにかけて投げるようなコントロールは健在でした」(元デイリースポーツ編集局長でジャーナリストの平井隆司氏) 江夏の抜群のコントロールに目をつけ、リリーフとして起用したのが南海の監督、野村克也だった。通算盗塁数2位、シーズン盗塁成功率の日本記録を持つ「南海の核弾頭」こと広瀬叔功が語る。「当時はまだリリーフ投手の地位が低かったので、江夏をリリーフ専用で使うと聞いた時は本当に驚いた。とにかくコントロールが良くて、ポンポンとリズム良く抑えてくれるから、後ろで守っていても楽だった。ノムやんが77年に解任され、ワシが後任監督になったが、江夏は『野村監督が辞めるなら』と志願して広島にトレードされた。江夏が抜けた後は戦力的には大変だった」“一匹狼”のイメージが強い江夏だが、南海の三塁手だった藤原満は意外な側面を語る。「江夏が野村さんからリリーフを言い渡された時に、彼が真っ先に心配したのはそれまでリリーフだった佐藤ミチ(道郎)の処遇だった。ミチが先発に転向するということで、江夏は快諾したらしい。そういう配慮ができる男なんです」 江夏は昨年、野村監督の訃報に際し、本誌・週刊ポストでこう弔意を表した。「色々あったけど、自分にとってはやっぱり、『恩人』だね。それは間違いない。自分の野球人生、“残りの半分”はあの人が新しい道を作ってくれた。それはもう感謝の一言しかないよ」(2020年3月13日号)※週刊ポスト2021年6月4日号
2021.05.25 19:00
週刊ポスト
王貞治と江夏豊の対決にどんなドラマが?(時事通信フォト)
王貞治vs江夏豊 江夏の女房役が明かす「王で新記録達成」の勘違い
 巨人対阪神の“伝統の一戦”は、球史に残るドラマをいくつも残してきた。中でもファンを熱狂させたのが王貞治と江夏豊の対決だ。当時、虎番だった元デイリースポーツ編集局長の平井隆司氏が振り返る。「長嶋茂雄と村山実のライバル関係も熾烈でしたが、王と江夏もそれに比肩するものでした。打倒・王に燃える江夏は、ローテーションに関係なく『巨人戦に先発させてほしい』と志願して、王を打ち取ったら査定アップというオプション契約まで結んでいた」 阪神で江夏とバッテリーを組んだ“ダンプ辻”こと辻恭彦氏は、全盛期の王に果敢に挑む若武者の陰の努力を間近で見た。「江夏が8歳年上の王さんをライバル視するようになったのは、村山さんに『俺のライバルは長嶋、お前は王だ』と言われたからです。江夏はああ見えて努力家で、コントロールをつけるため家や宿舎ではいつも畳に寝転がり、天井に当たらないギリギリの距離までボールを投げて指先の感覚を養っていた。彼は手が小さく指が短いので、ベンチで常にボールを握り、手のひらにボールの感覚をなじませていました」 いまも語り継がれるのは1968年9月17日、甲子園での対戦だ。この試合で江夏は、稲尾和久の持つシーズン奪三振記録を王から奪って塗り替えると公言していた。 4回、王を三振に切って取った江夏は満面の笑みでベンチに引き返した。ところが、これがタイ記録となる353個目の三振だった。江夏も辻も1個数え間違えていたのだ。 江夏はシーズン新記録となる三振を王から奪うため、続く8人の打者に「手加減」を施した。「速球を投げると三振するので、やや緩い球を真ん中低めに集めた。9番打者で相手投手の高橋一三を2ストライクまで追い込んだ時は緊張したけど、続く真ん中高めが内野ゴロになりました。よくバットに当ててくれた(苦笑)」(辻氏) 8打者三振ゼロで迎えた王の次打席、江夏はインハイの直球で空振り三振に打ち取り、見事シーズン新記録を樹立した。「新記録がかかっていることを知りながら、バットにコツンと当てる気配を微塵も見せず、フルスイングした王さんもすごかった」(同前) 王が江夏との対決で感情を露わにしたのは、1971年9月15日の対戦だ。 前年に一本足打法を作り上げた恩師の荒川博・打撃コーチが退団し、王はスランプに陥っていた。「荒川がいないと打てないのか」とマスコミに叩かれた王は、江夏から9回表に起死回生の逆転3ランを放ち、甲子園で目を潤ませた。「2ストライク後にカーブを要求したが、江夏は『変化球で三振を取っても嬉しくない』とサインに首を振って直球を投げ、一振りでラッキーゾーンに運ばれた。江夏らしい一球でした」(辻氏) 幾多の名勝負でスタンドを沸かせた2人には、ある共通点があった。「長嶋さんは『打たせてくれよ。頼むぞ』と話しながら打席に入りましたが、王さんは真剣そのものでキャッチャーが話しかけられない雰囲気があった。一方の江夏もマウンドでは誰も近づけない気迫を持つ孤高の投手でした。そんな2人の対決はまさに“食うか、食われるか”。生涯成績を見ると、江夏から最も多く本塁打を放ったのが王さんで、王さんから最も多く三振を奪ったのが江夏なんです」(同前) 侍同士の真剣勝負が、古き良き時代の大観衆を魅了した。※週刊ポスト2021年5月7・14日号
2021.05.07 07:00
週刊ポスト
王貞治と江夏豊の対決にどんなドラマが?(時事通信フォト)
球界秘話 江夏豊が「一番嫌いだったもの」と「首振りの嘘」
 1967年に阪神に入団した江夏豊は、巨人戦でさまざまなドラマを作り、虎党の心を鷲づかみにした。甲子園の巨人戦では駅から球場までの道にダフ屋が列を作り、ついには球場に入れないファンを救済しようとラッキーゾーンにまで客を入れたこともあった。当時の伝統の一戦では、ベテランになった村山実と長嶋茂雄のライバル対決と並び、その村山から「お前は王を抑えろ」とハッパをかけられた江夏と王貞治の真剣勝負も見せ場だった。 その江夏は無口な一匹狼で、チームメイトともあまり交流はなかったというが、見えないところで努力を惜しまない求道者でもあった。『週刊ポスト』(4月26日発売号)は人気シリーズ「昭和のライバル対決」で江夏と王の対決秘話を取り上げているが、その陰にあった投手・江夏の知られざる素顔を、バッテリーを組んでいたダンプ辻こと辻恭彦氏に聞いた(以下、文中敬称略)。「江夏が入団した頃には、僕は主にブルペンキャッチャーをしていました。江夏と組むようになったのは翌年(1968年)からです。それまでマスクを被っていたヒゲ辻さん(辻佳紀)とのコンビがどうも調子が悪いと判断した藤本定義・監督が僕を使ってくれた」(辻氏=以下、「」内は同) キャッチャーはよく女房役と言われるが、孤高の勝負師だった江夏と辻は会話や会食の機会もほとんどない「静かな夫婦」だったという。「江夏とは飯に行ったこともないし、お茶を飲んだこともありません。じっくり話したのは、甲子園で雨が降って試合中止になった時に1時間くらい話しただけ。その1回きりでしたね。僕が『どういうピッチャーになりたいんだ?』と聞くと、『ホームランを打たれるのが嫌だ』と、それだけなんですよ。 当時、同じ兵庫出身で江夏の1年先輩の鈴木啓示が近鉄で活躍していましたが、結構ホームランを打たれていた。江夏は、『あんなふうにホームランを打たれたくない』と言うんですね。だから僕は、右打者でもアウトローにサインを出すから、それを投げられるコントロールをつけろと話しました。左腕の江夏は右打者にはインコースにクロスファイアを投げ込みたかったみたいですが、鈴木がそれを武器にしていて、甘くなるとホームランを打たれていた。実際に北海道遠征で僕のリードで1安打ピッチングをしたことで江夏も納得し、それから三振の取れる投球を研究していきました。左ピッチャーで右打者のアウトコースにきっちり投げたのは江夏が初めてじゃないですか」 入団当初の江夏は必ずしもコントロールの良いピッチャーではなかった。これは知られた逸話だが、コントロールを養うために、床に寝転がってボールを空中に投げ上げ、天井ぎりぎりで戻ってきて手に収まるよう練習を重ねたという。手が小さく指も短かったという江夏は、そうやって指先の微妙な感覚を養ってコントロールを身に付けていった。そのうちボールを思い通りに操れるようになり、剛速球とカーブという単純な球種だけで並みいるスラッガーを手玉に取るようになった。「王さんだけではなく、ピンチの時とかちょっと生意気なバッターには、普段のボールにプラスアルファした投球で勝負しました。100キロで投げているボールと同じ投げ方で110キロにして投げるとか。1試合に10球もないのですが、微妙にスピードやリズムを変えて投げていました。 サインではなく、ちょっとした仕草で伝えると、“わかった”という感じでしたね。江夏は基本的にサインに首を振ることはなかった。試合では首を振っていましたが、あれは実はバッターを惑わすためだけの芝居でした(笑)。よく考えればわかるのですが、真っすぐとカーブしかないのに、2回も3回も首を振る。一体何に首を振っているのかわかりませんよね(笑)」 江夏は終生、ホームランを打たれることが一番嫌いで、打たれるとものも言わず、怒りのオーラに誰も近づけなかったという。辻とのバッテリーを組んだ1968年に、シーズン最多奪三振の記念すべき新記録の三振を王から奪った試合の「とんでもない勘違い」のエピソードは『週刊ポスト』で再現されている。
2021.04.29 07:00
NEWSポストセブン
野村ー江本のバッテリーが南海を支えた(共同)
「三悪人」の一角・エモやんが明かす「ノムさんの人たらし」
 2020年2月に亡くなった野村克也氏は、選手としても指導者としても一流の成績と、一流の教え子たちを残した。『週刊ポスト』(2020年12月21日発売号)では、8人の球界名士が「ノムさんが遺した言葉」を語っている。そこに収録できなかった未公開証言をNEWSポストセブン読者にお届けしよう。 まずは野村氏が1954年の入団から1977年の退団まで過ごした南海ホークス時代の教え子だった江本孟紀氏の証言。プロ入り2年目の1972年に東映から南海にトレードされると、プレイングマネージャーだった野村氏とバッテリーを組み、いきなり16勝をあげてエースに。4年連続で2桁勝利をあげ、1973年にはリーグ優勝に貢献した。1975年オフに江夏豊氏とのトレードで阪神に移籍するまで野村氏とのコンビで活躍した。 * * * ノムさんは僕、江夏豊、門田博光の3人を「三悪人」と呼んでいたけど、南海の4年間でノムさんのサインに首を振ったことなんか一度もないんですよ(笑い)。ノムさんは「ワシのサインが気に入らんかったら遠慮なく首を振れ」と言っていたし、サイン通りに投げて打たれた時は、ベンチで「悪かったな。すまん、ワシのせいや」と謝りに来てくれました。 ノムさんと初めて会ったのは、トレードされた1972年1月の合同自主トレでした。グリーンのリンカーンでクラクションを鳴らしながら球場の中まで乗り付けて、ドアを開けるなり、「俺みたいな生活がしたければしっかりやれよ」と憎らしいことを言う。ところが、そのあと僕のところに来て、「お前、去年は敗戦処理で投げていたけど、あの球を俺が受けると10勝以上するぞ」と囁くんです。ルーキーだった東映の1年目は0勝4敗ですよ。そんなアホな、と思いました。でも、初対面でそう言われてシビレたなあ。それで、背番号16のまっさらな南海のユニフォームを手渡してくれて、「10勝以上するとエースだから、今日からエース番号をつけとけ」と言うんだから、おだてるにもほどがあるんだけど、背中に電気が走りましたね。マザーテレサかと思いましたよ(笑い)。 ところが、キャンプが終わってオープン戦に入ると、最初の試合で打ち込まれた。すると翌日のスポーツ紙に、ノムさんが僕のことをボロクソにコメントしているんです。あんなにエースだと持ち上げておいてこれか、とカーッときてね。闘志に火がついて次の試合から必死に投げた。今思えば、あれも計算されていたのかもしれません。のちにノムさんはID野球なんて言われて、知的な言葉を多く残しているイメージがあるかもしれませんが、本当はワンフレーズのボソッと囁く言葉が人を動かすんじゃないかと思っています。南海時代は、マウンドに来ても無言のことがよくあったし、何か言うとしても「どや、勝負するか?」くらいなんです。 当時はデータ野球というより「俺についてこい」というタイプでした。確かにミーティングでは細かい話もよくしたけど、それは居眠りして聞いてなかったな(笑い)。ノムさんがすごいのは、主役より、むしろ脇役をうまく使うところでしょう。「適材適所」が口癖でしたが、当時の南海には代打の青野修三さん、ヤジ将軍の大塚徹さん、サイン伝達役の堀井和人など、ベンチの前列には特別な役割を持つ選手を配置していました。青野さんなんか、7回からしかベンチに姿がなかったですからね。そんな選手を好んで使っていた。 僕が知るノムさんは、ベラベラしゃべるイメージは全然なくて、だいたい一言でしたね。ピンチでマウンドに来ると、「どうや?」と言うだけ。それは続投を前提にしているんです。そう言われて「代わります」というピッチャーはいませんからね。ノムさんは自分でボールを受けているから最初から限界かどうかわかってるんです。代えるつもりの時は、「代わろか」と、これも一言でした。
2020.12.20 07:00
NEWSポストセブン
1984年の江夏豊「西武への望まないトレード」の表と裏
1984年の江夏豊「西武への望まないトレード」の表と裏
 1971年のオールスター戦で9者連続奪三振、2年後の中日戦では延長11回に自らのサヨナラホームランでノーヒットノーラン達成し、通算206勝、193セーブを挙げた球史に残る大投手・江夏豊がユニフォームを脱いでから、今年で35年になる。 1966年の第1次ドラフトで阪神に入団した江夏は、王貞治や長嶋茂雄を擁するV9時代の巨人に立ち向かい、2年目の1968年には401奪三振という今も破られていない年間記録を樹立。阪神在籍9年間で159勝、防御率 2.42という驚異的な数字を残した。 先発完投にこだわっていた江夏は南海移籍2年目の1977年、野村克也選手兼任監督の勧めで抑えに転向する。その後も広島、日本ハムで抑えの切り札としてチームの優勝に貢献し、史上初の両リーグMVPを獲得して“優勝請負人”と呼ばれ、3球団で最優秀救援投手に輝いた。 35歳の1983年までに809試合に登板していた江夏は当時、前人未到の1000試合登板を目標に掲げていた。同年51試合に投げて、34セーブ、防御率2.33を記録しており、当時の最多である米田哲也の949登板を抜く可能性はあった(現在の記録は中日・岩瀬仁紀の1002登板。2018年引退)。 その年のオフ、江夏に人生の岐路が訪れた。日本ハムの大沢啓二監督が退任する際、一緒に日本ハムから去ることを提案されたのだ。球団常務になる大沢氏が、翌年から指揮を執る植村義信監督が江夏を扱いづらいだろうと判断したという説もある。球界渡り鳥の江夏は、大沢に行きたくない球団を伝えた。〈阪神、広島、巨人、西武、この4つは行きたくなかった。セならヤクルト、パなら近鉄という願望があった。強いチームを倒し、弱いチームを何とかしたいというロマンやね。大沢さんは「わかった」と言いながら、結局、決まったのは行きたくない球団と伝えておいた西武(笑)〉(江夏豊、岡田彰布共著『なぜ阪神は勝てないのか?』・角川書店・2009年9月発行) 古巣の阪神は優勝から遠ざかっていたが、当時は広島と巨人が毎年のようにペナントを争っており、西武は1983年の日本シリーズで激闘の末に巨人を倒して2年連続日本一に輝いていた。一方、ヤクルトは2年連続最下位、近鉄は1979年から2連覇の後、最下位、3位、4位と成績が落ち込んでいた。 結局、江夏は柴田保光、木村広との交換トレードで西武に移籍する。だが、チームには1983年に江夏の5年連続最優秀救援投手を阻んだ森繁和が抑えに君臨していた。なぜ、江夏が望んでいない西武にトレードされたのか。野球担当記者が話す。「1983年の日本シリーズで西武に敗れた巨人が江夏を獲得するという情報がありました。巨人は3勝2敗と王手をかけたシリーズ第6戦、1点リードした9回裏に第5戦に完投している西本聖を登板させた。西本が同点に追いつかれると、延長10回に江川卓を出したが、サヨナラ負けを喫した。角三男というストッパーはいたが、そこまでの信頼度がなかったのです。 日本ハムからの放出の噂を聞き、巨人は江夏の必要性を感じた。すると、巨人の動きを察知した西武が『巨人に取られるくらいならウチが手を上げる』と先手を打ち、若手の2投手を放出した。西武は翌年の日本シリーズまで見越し、巨人の手を塞ぎに行ったのです。球界の寝技師と呼ばれた根本陸夫管理部長を初めとした西武フロントの動きが速かった」(以下同) 江夏は阪神時代から首脳陣にとって扱いにくい投手と言われていた。そのせいか、球界随一の実力派でありながら、5球団も渡り歩くことになる。在籍時代1度も優勝できなかった阪神は別として、それ以降のチームでは監督に恵まれていたことを見逃してはならない。江夏がともに戦った指揮官の通算監督年数は、南海時代の野村克也が24年(他にヤクルト、阪神、楽天)、広島時代の古葉竹識監督が14年(他に大洋)、日本ハム時代の大沢啓二監督が13年(他にロッテ)。いずれも長く指揮を任される名監督たちの下で、江夏はプレーすることができた。 1978年にヤクルトを初の日本一に、1982年から西武を連覇に導いた広岡達朗監督も名将だったが、選手のプライドを尊重する姿勢とは正反対で、いわゆる『管理野球』を貫いていた。しかも、広岡監督は電光石火の速さで決まった江夏のトレードを知らされておらず、将来有望な若手投手2人を相談なしに放出されたことに憤っていた。 そんな指揮官と江夏のソリが合わなかったのかもしれない。シーズン序盤は抑えとしてセーブを挙げていたが、7月26日にプロ入り初の2軍落ち。その後、1軍から呼ばれることなく、オフに退団する。翌春、江夏は大リーグ挑戦のために海を渡り、ミルウォーキー・ブルワーズに招待選手としてキャンプに参加。しかし、開幕メジャーの夢は叶わず、ユニフォームを脱いだ。「もし希望球団の1つである近鉄に行っていたら、江夏の野球人生は変わっていたと思います。近鉄の豪放磊落なチームカラーは、江夏に合っていた。1984年から就任した岡本伊三美監督は現役時代、首位打者も獲得した黄金期の南海を支えた名選手で、人心掌握に長けていた鶴岡一人監督を尊敬していた。 後年、野村克也さんが『鶴岡さんは選手をほとんど褒めない』と否定的でしたが、鶴岡監督は選手の特徴を見抜いて使い分けていただけ。そうじゃないと、今も歴代1位の通算1773勝をあげられません。 岡本監督は大沢親分と南海時代のチームメイトですから、そのラインで近鉄に江夏が行くことも考えられました。しかし、根本陸夫管理部長を中心とする西武のフロントと違い、近鉄は江夏の移籍情報を察知できなかった。岡本監督は阪神コーチ時代に2年間、江夏と接しており、彼の性格もある程度把握していた。選手の良さを引き出そうとする監督でしたから、江夏とも上手く行ったかもしれません」 1984年、近鉄の抑えは前年にヤクルトから移籍してきた鈴木康二朗が務めていた。王貞治に756号本塁打を献上したことでも知られる鈴木は、近鉄では3年連続10セーブ以上、ヤクルトでは主に先発で2ケタ勝利3回を挙げた好投手である。1984年、もし江夏が近鉄に移籍していれば、鈴木を先発に回す手も生まれ、チームが浮上したかもしれない。そして数年後、前人未到だった1000登板や近鉄初の日本一に貢献していた可能性もゼロとは言えない。 西武移籍が江夏の選手寿命を縮めたことは否めないかもしれないが、翌年の大リーグ挑戦はファンに夢を与えてくれたこともまた事実である。(文中敬称略)
2020.06.09 16:00
NEWSポストセブン
オールスター9者連続奪三振達成の江夏豊 実は15連続だった
オールスター9者連続奪三振達成の江夏豊 実は15連続だった
 史上初のプロ野球オールスター戦の中止が発表され、野球ファンはがっかりしている。球宴が今も心を揺さぶるのは、熱狂したかつての記憶があるからだろう。なかでも「史上最高」と語り継がれるのが、あの大記録が生まれた1971年である。 第1戦では、江夏豊(阪神)が9者連続奪三振という快記録を成し遂げ、継投でノーヒット・ノーランを達成してセが5対0で圧勝。第2戦はパが4対0で快勝。当時、学習院初等科に通っていた浩宮さまも観戦された第3戦では、再び江夏がマウンドに登った。 6回に江夏がリリーフ登板したときの客席の歓声は凄まじかったという。いきなり江藤(慎一・ロッテ)から三振を奪い、10者連続奪三振となった。実は江夏は前年のオールスターでも5者連続三振を奪っており、合わせて15者連続奪三振の大記録を樹立した。 それを止めたのは、人一倍セにライバル心を燃やす野村(克也・南海)だった。内野ゴロだったが、野村は試合後にこう振り返った。「パの恥だ。絶対三振はしない。そのためにヒットを打つことより球に当てることに全神経を集中した。江夏はいやな顔をしていましたよ」“月見草”としての意地が爆発した名場面であるが、後に江夏を南海に受け入れリリーフとして再生させたのも野村だった。 試合は7回からパのマウンドに立った村田(兆治・ロッテ)が、打者9人をノーヒットに抑える優秀投手賞に輝くピッチングを披露し、パが1点差で逃げ切った。この年からマサカリ投法を始めた村田は、当時を振り返って言う。「この年は、新しいフォームがどれぐらい通用するか試したかった。2試合投げてノーヒットだったことが自信につながった。試合で投げるだけでなく、一流のピッチャーとキャッチボールするだけで得るものがある。最高の選手が集まるオールスターだからこその経験は、すべてが貴重だったし、選ばれることに誇りを持っていた。当時の選手たちはみんなそう思っていたんじゃないですか」 かくして1971年は2勝1敗でパ・リーグが勝ち越し。こんな“夢の球宴”は二度と見られないだろう。※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.30 07:00
週刊ポスト
浩宮様は1971年の球宴を観戦し、「いいぞ長嶋」と大喜びした
浩宮様は1971年の球宴を観戦し、「いいぞ長嶋」と大喜びした
 史上初の中止が発表されたプロ野球のオールスターゲーム。過去には様々な名試合、名場面が生まれたが、「史上最高」と語り継がれるのが、江夏豊(阪神)が9者連続奪三振という大記録が達成した1971年のオールスターゲームだ。第1戦では、江夏がパ・リーグ打線をきりきり舞いにし、継投でノーヒット・ノーランをやられたパだが、翌戦から逆襲が始まる。第2戦のセの先発は、4年目で初出場した松岡弘(ヤクルト)だった。「緊張してたんでしょう、いきなり先頭打者の有藤(通世・ロッテ)さんの背中にぶつけましたもん(笑い)。続く張本(勲・東映)さんにはセンター前に弾き返され、長池(徳二・阪急)さんにも内野安打を許してたった8球で失点、敗戦投手ですわ。 ベンチに戻ると王(貞治・巨人)さんから“君の球は速いよ。スピードに勝る脅威はない”と言われた。そのときはジーンときたが、後々考えると策にハマったんじゃないかと思う。その後真っ向勝負でどれだけ打たれたか(笑い)」 先発の金田留弘(東映・金田正一の実弟)から4人で継投したパの投手陣に、セはわずか2安打。長池の一発もあって4対0とパが快勝した。そして1勝1敗で迎えた3戦目。後楽園球場には超満員の3万9035人が集まった。当時、学習院初等科に通っていた浩宮さま、現在の天皇陛下もご学友とともに観戦に訪れていた。 セの先発は、松岡の高校時代のライバルだったカミソリシュートの平松(政次・大洋)。中日の4位指名を受けながら巨人を熱望した平松は一度は社会人へ進むも巨人入りは叶わず、大洋に入った経緯がある。「巨人で投げるのが夢だったから、ファン投票より川上(哲治)監督に監督推薦で選ばれたことのほうが嬉しかった。監督は試合前に全員を集めて“セ・リーグの代表で出ているんだから、恥ずかしい試合だけはやらないでおこう”とみんなを引き締めていました。 ONをバックに投げられた感激は今も忘れませんよ。前年は25勝して最多勝のタイトルも取っていたし、オールスターも3度目でしたが、それでもONを前に緊張していたのか、ファーストの王さんに悪送球してしまった(笑い)」 その平松からピッチャー強襲の先制タイムリーを放ったのが、加藤秀司(阪急)である。加藤は1戦目で、9人目の打者として江夏に9者連続奪三振記録を献上してしまったが、この日の活躍でホームランを打った張本を差し置いてMVPを手にした。「張さんは怒ったやろね。あの頃はベンチの真ん中にノムさん(野村克也・南海)とか張さんとかが座っていた。座るなとは言われなかったが、そういう空気が漂っていた。初出場で遠慮もあったが、1戦目に代打で出されたときはなんで江夏は左ピッチャーなのに左バッターのボクが打ちにいかなアカンねんと思ったけどね」 加藤らの活躍で3点リードのパに対し、反転攻勢に回ったセは4回、2番手の山田(久志・阪急)から長嶋が面目躍如の2ランを放つ。長嶋の勇姿に、浩宮さまの興奮する様子が当時の新聞に残っている。〈長嶋が座席に立つたびに「がんばれ」と声援、本塁打が出た四回には「いいぞ長嶋」といって大喜び。五回を終ったところで休けいの予定を江夏登板で急きょ変更し、そのままご観戦するなど大変な熱の入れよう〉(朝日新聞1971年7月21日付)※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.29 07:00
週刊ポスト
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
 今年のプロ野球オールスターゲームは中止になったが、球宴が今も昔も心を揺さぶるのは、プロの凄みが凝縮されるようなシーンがしばしば生まれてきたからだ。その中でも「史上最高」と語り継がれるのが、1971年、江夏豊(阪神)による9者連続奪三振。芥川賞作家で熱狂的阪神ファンとして知られる高橋三千綱氏は、あの試合の衝撃を「はっきりと覚えている」という。「オールスターのシーズンが近づくと、どんな選手が選ばれるかワクワクして。そのなかでも、江夏豊(阪神)の9者連続奪三振は、誰が相手だったかまではっきり覚えています。江夏は“打てるものなら打ってみろ”とばかりにストレートを投げ込み、パ・リーグのバッターもミートに徹すれば不名誉な記録は避けられるのに、フルスイングで向かっていったのは立派でした。 9人目となった加藤(秀司・阪急)がファウルフライを打ち上げたとき、江夏は田淵(幸一・阪神)に『追うな!』と声をかけてたけど、こっちもテレビを見ながら“ファウルになれ”と叫んでいました」 江夏の記録は、文字通りの“オールスター”の顔ぶれの中で生まれたからこそ、価値がある。3番・王貞治、4番・長嶋茂雄のONの脇を田淵、ロバーツ(ヤクルト)らスラッガーが固めた。対するパも、江藤慎一(ロッテ)、土井正博(近鉄)、張本勲(東映)、野村克也(南海)、長池徳二(阪急)の超重量級打線だった。投手陣も圧巻の顔触れだ。セが江夏、堀内恒夫(巨人)、平松政次(大洋)、パは米田哲也(阪急)、村田兆治(ロッテ)、山田久志(阪急)……。 交流戦がなかった当時、日本シリーズ以外に、セ・パの代表選手が真剣勝負するのは、この機会しかない。WBCのように日本代表として組む機会もなかったため、ライバル球団の選手が同じベンチで談笑する姿すら貴重だった。いまやお祭りムードの印象が強いオールスターだが、当時は違う。市立和歌山商から阪神に入団して6年目の藤田平は、4回目の出場ながらピリピリした空気を感じていた。「セの監督は、あの年巨人をV7に導いた川上哲治さんですし、緊張感がありました。直接話なんてできませんよ。子供の頃からの憧れだった長嶋さんと三遊間を組んで、ショートゴロを捕れば一塁の王さんに送球する。それは感激でした」◆「幸司、前に来て勉強しろ」 ファン投票でパの投手トップになったのは、甲子園のアイドルからプロ入りして2年目の太田幸司(近鉄)。ルーキーイヤーも人気だけで選出されたが、この年も調子は上がらず0勝1敗の成績で、選出が決まった日にファーム落ちした。「ファン投票の中間発表で1位にいると、頼むから投票しないでくれ、と思ったものです。本番のベンチではボクらのようなペーペーは、隅っこのほうで小さくなって見ていましたが、張本さんから“幸司、前に来い。選ばれたのは恥ずかしいことじゃない。ファンの期待に応えるためにも、一番前で先輩たちのプレーを勉強しろ”と声をかけてもらって救われました」 その目の前で、江夏は伝説の快投を見せた。「パの強者たちが“俺が打ってくるわ”と勇ましく出て行くのに打てないんですから」(同前) 江夏はこの年、ここまで6勝9敗と振るわず、「こんな成績なのに選ばれるとは思わなかった。ファンの期待に応えるためには、大リーグにもない記録を作ってやる」と心に決めていたという。ベンチでその様子を見ていた木俣達彦(中日)が振り返る。「セのコーチには村山実さん(当時阪神の選手兼監督)もいたんですが、“あんな江夏は見たことないで。公式戦でもあれぐらい真剣に投げてくれたらええのに”とボヤいて、みんなを笑わせてました。けれど笑いはそこまで。当時は真剣勝負でしたから」 江夏の熱投は、リリーフした渡辺秀武、高橋一三(ともに巨人)ら4投手にも乗り移り、継投でのノーヒット・ノーランを達成した。 江夏は打者としても鮮烈な印象を残した。2回に回って来た2死一、二塁の打席で3球目を右翼席中段に叩きこんだ。打たれた米田は、前年までに286勝を挙げていた球界の大エース。試合前の始球式は、米田の長男が務めた。米田は半世紀が過ぎた今でも悔しそうに語る。「ああ、あの試合か。ボウズの前で江夏に3ランを打たれたことしか思い出さんわ。当時のパ・リーグは監督も選手も、みんな人気があって給料もよかったセ・リーグに負けたくないという気持ちで、ランナーに出ても相手とは話もせんかったもんや。なにせ、(ドル箱の)巨人とオープン戦を組んでもらうのに四苦八苦してた時代やからねえ」※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.28 11:00
週刊ポスト
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
 新型コロナ感染が発覚して以降、女性記者との食事やタニマチとの合コンなど私生活が明らかになりファンからの批判も受けているのは阪神・藤浪晋太郎(25)だ。 かつては、大阪桐蔭のエースとして史上7校目の春夏連覇を達成、2012年のドラフトでは大谷翔平(25)を抑え、4球団が競合するなど、高い評価を受けてきた。「大リーグ挑戦で注目されていたのは大谷だったが、メジャーのスカウトの大半は藤浪の方が将来性は上という評価だった」(MLB関係者) その高評価に違わぬ活躍を見せた。1年目に新人特別賞を獲得。さらに、松坂大輔以来となる高卒1年目から3年連続2ケタ勝利をマークした。しかし、2016年から制球の乱れが目立つようになり、成績は急落していく。 近年の制球難は深刻で、右打者への抜け球を警戒し、対戦チームは左打者を並べる「藤浪シフト」を敷く始末。コーチやOBがいくらアドバイスしても改善の兆しも窺えない。「藤浪はああ見えて頑固な性格。2015年の春季キャンプに臨時コーチとして参加した江夏豊氏がキャッチボールの大切さを説いたのですが、藤浪だけアドバイスを聞かなかったと明かしています。能見篤史やメッセンジャーら先輩投手も、自己流の調整ばかりの藤浪に苦言を呈してきました」(前出・在阪スポーツ紙デスク) 昨年はついに初の勝ち星ゼロと、どん底まで落ちる。ライバルだった大谷の活躍について説明する必要はないだろう。メジャーも開幕が延期されているが、開幕日だった3月26日(日本時間27日)にMLBが公式サイトで公開したファンに向けた動画メッセージに大谷も出演。いまや世界の顔だ。「阪神には指導できるコーチもおらず、ファンや在阪スポーツ紙の存在が重圧でイップスになっているとも指摘されている。ここ3年、パの球団からは“うちなら再生できる”というトレードの話がきている。これまでは球団内でも藤浪の復活を期待する声が強かったが、今回の一件で話が進む可能性もある」(同前) 熱心なファンからも「ほとほと呆れ果てた」という声が聞こえる。「今年こそは、と思っていたのに何をしとんねん。ピッチングも私生活もコントロール不能なんて、シャレにもならんわ」(大阪在住、50代男性) それでも197cmの体格から放たれる最速160kmの剛速球は、阪神のみならず球界のエースたる能力を秘めているのはたしかだ。阪神ドラ1の先輩で、故障によるトレードという屈辱を経験したものの、再び阪神で「松井秀喜キラー」として復活した遠山昭治(奬志)氏はエールを送る。「どん底を経験して、自分を見つめ直したと思う。それをピッチングに生かせばいい。ちょっとしたことでは変われないだろうが、あれだけの素材なのだからやれますよ。今回の騒動で世間から批判を受けていますが、結果で雑音を吹き飛ばすシーズンにしてほしい」 それしか名誉挽回の方法はないが、果たして……。※週刊ポスト2020年4月17日号
2020.04.07 07:00
週刊ポスト
野村監督との思い出を門田博光氏が振り返る
野村克也さんが抜擢、日本球界に革命を起こした初代セーブ王
 プロ野球の南海やヤクルトで監督を務めた野村克也氏が、2月11日に死去してから1か月が経った。数多くの追悼番組が放送され、著書の売上も増加するなど、生前の功績に改めて注目が集まっている。中でも、頻繁に取り上げられる事例のひとつが、南海監督時代に江夏豊を抑えに転向させ、日本のプロ野球に「先発・中継ぎ・抑え」という分業制を定着させた点だ。 野村監督は1976年、阪神から南海に移籍してきた江夏に「革命を起こしてみないか」という誘い文句で、先発からリリーフへの転向を決断させた。江夏は翌年に初の最優秀救援投手に輝き、移籍先の広島、日本ハムでも同賞を獲得し、チームを優勝に導いた。阪神時代、先発完投を信条にした大投手・江夏が抑えに回って、“優勝請負人”と呼ばれる活躍をしたことで、プロ野球界にリリーフを格下に見る風潮が徐々に消えていった。 野村氏は著書『プロ野球重大事件 誰も知らない”あの真相”』(角川書店、2012年発行)で、“8時半の男”と呼ばれた巨人・宮田征典を最初の抑え専門職ではないかと推測した後、こう語っている。〈宮田の場合は(中略)セーブの記録がなかったこともあって、ストッパーといえばやはり江夏豊というイメージが強いのではないかと思われる。しかし、じつは「革命」を起こした男は、それ以前にいたのである。それも南海に……〉 実は、江夏より先にストッパーとして名を馳せた投手がいたのだ。 1974年に初代セーブ王に輝いた佐藤道郎である。野村氏は選手兼任監督の1年目の1970年、新人の佐藤を抑えに抜擢。佐藤は55試合に登板し、リリーフが試合終了まで投げた場合に付く『交代完了』も47試合を記録。ともにリーグ最多だった。最終的に、2.05で最優秀防御率に輝き、新人王も受賞。その後も抑えとして活躍し、1973年には野村南海の優勝に大きく貢献している。 翌年、日本にセーブの規則が出来上がった。南海優勝の前年にルールがあれば、佐藤は10セーブを記録していたことになる。2位は5セーブの木樽正明(ロッテ)、田中章(太平洋)、セ・リーグの1位は6セーブの安田猛(ヤクルト)だから、佐藤の記録は突出していたわけだ。 佐藤は1974年、130試合制でリーグ最多の68試合に登板。13セーブを挙げて初代セーブ王になった。この頃は抑え投手が2~3イニング投げることは頻繁にあり、佐藤は主にリリーフを務めた7年間で6度も規定投球回数(=試合数)に達している。ただし、そのうち3度は130~136回の間だった。 1974年は最終戦前日のダブルヘッダーの第1試合に4回、第2試合に2回を投げて、なんとか到達。それまで1位の神部年男(近鉄)を上回り、1.91で2度目の最優秀防御率を獲得した。タイトルを取らせようという野村監督の配慮が垣間見える。野村氏は前掲書で、こう書いている。〈宮田と江夏の活躍が鮮烈だったので、その狭間にある佐藤のストッパーとしての印象が薄れてしまった。(中略)ここであらためて「佐藤が最初の本格的ストッパーである」と記し、彼の名誉を回復する次第である〉
2020.03.12 16:00
NEWSポストセブン

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