しかし、これでは近代国家はできない。そこで明治政府は、たとえ天皇よりも年上でもあっても日本人なら「天皇の赤ん坊」であるという考え方を広めた。すなわち天皇は父親であり、それなら天皇に尽くすことは忠であると同時に孝にもなる。すなわち「忠孝一致」するから、親が死んだからといって戦線を離脱して故郷に帰るということも無くなる。大日本帝国ではこれが常識になった。
だからこそ健次郎も、「鬼っ子といえども、陛下、あなたの子供ではありませんか。殺すべきではありません」と言っているわけだ。もっとも健次郎は、天皇がそういう「仁慈の御心」を発揮できなかったのは、近臣にそれを奏上する人材がいなかったからだとし、山岡鉄舟、木戸松菊(孝允)、元田永孚らの名前を挙げ、彼らがいまもいたらこんなことにならなかった、と嘆いている。また幸徳ら処刑者のなかには僧侶(内山愚童)もいたのだが、宗教界からも助命嘆願の動きがまったく無かったことも強く批判している。
〈出家僧侶、宗教家などには、一人位は逆徒の命乞する者があって宜いではないか。しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。〉
(引用前掲書)
さらに健次郎は、「幸徳らの死に関しては、我々五千万人(=当時の人口、国民すべての意。引用者註)斉しくその責を負わねばならぬ」としながらも、「もっとも責むべきは当局者である」とし、その責任を舌鋒鋭く追及する。
〈総じて幸徳らに対する政府の遺口は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。(中略)大逆事件の審判中当路の大臣は一人もただの一度も傍聴に来なかったのである―死の判決で国民を嚇して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打の死刑―否、死刑ではない、暗殺―暗殺である。〉
(引用前掲書)
しかし、そんなことをしてもかえって逆効果であると健次郎は断じ、政府そのものを次のように批判する。
〈こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。〉
(引用前掲書)
現代の政治家でも、自己の不明を恥じるとき「不徳の致すところ(自分の徳の無さがこの結果を招いた)」と言うことがあるが、健次郎は「国政の要路に当る者」つまり名指しはしていないが、桂太郎首相やその取り巻きの大臣たちに「理想も信念も人情も人権尊重も度量も向上心も無く、さらには傲慢(他国の進歩が見えない)であるがゆえの時代遅れという欠点があったからこそ、こういう結果を招いた」と厳しく批判したのだ。
これは、この後の大日本帝国そのもの、そして桂太郎首相の出身母体でもあり、昭和の戦争にも明治の遺産である「三八式(明治38年式)歩兵銃」を使い続けた帝国陸軍にも、ぴたりと当てはまる批判ではないだろうか。