春の日差しのなかの安倍夫妻
紹介してくださった重富氏は、晋太郎氏が亡くなったあとの親代わりの存在であったこともあり、晋三氏と私は、身内のような親しさでおつきあいさせていただくことになったのでした。そして、晋三氏は2006年に内閣総理大臣に就任しますが、1年で退陣しました。「持病の潰瘍性大腸炎の再発により、国民の負託に応えられなくなった」というのが、その理由でした。
この第一次安倍内閣時代も、私は、持病と苦闘されていた晋三氏に、お加持をして差し上げていました。夜間お忍びで首相官邸にお邪魔したこともありました。当時、晋三氏はまだ50代前半でしたが、相次ぐ大臣辞任騒動への対応、マスコミや野党からの執拗な追及に加えて、参院選の敗北が重なり、在任わずか1年で、気力が衰えて辞任されたのでした。「遠くない将来、必ず必要とされる時が来ます。その時を信じて、捲土重来を期してください」ということを申し上げました。
第一次安倍内閣が瓦解したあと、晋三氏はほとんど表に出ずに過ごされました。民主党政権時代には、東日本大震災・原発事故という国難に遭遇し、デフレに沈んでいく日本の状況に危機感をおぼえていましたから、晋三氏が総理の座に再チャレンジするときは、諸手をあげて応援しました。日本国の総理大臣という重責を担う気持ちが、休養の時を経て、すっかり回復して充実していることを感じたのです。
アベノミクスにより深刻なデフレ状況を克服し、「地球儀を俯瞰する外交」は、国際社会に復活を印象づけ、日本はよみがえった感がありました。そして、退陣してなお、大派閥の長に戻り、政界に大きな影響力を持つにいたる晋三氏は、さらなる挑戦を考えていました。もう一度、政権を担いたいという思いがあったのです。私もこのお気持ちを応援して、背中を押しました。凶弾は、その願いを奪い去ってしまったのです。
しかし、このほどの事件によって、衝撃を受けた世界各国の要人から、多くの弔意が寄せられました。その内容は、「安倍晋三」という偉大な政治家を記録するものでありました。死して、その功績は不滅のものとなったのであります。合掌。
取材協力/大島佑介(ジャーナリスト)