芸能

戸田奈津子さん、50回鑑賞した『第三の男』で気づかされた字幕の魅力

「女ひとりの人生はあまりに短い。だから私は映画を観るのです」

”通訳引退”を表明した戸田奈津子さん

 5月公開の映画『トップガン マーヴェリック』が大ヒットを記録。同作品の字幕翻訳を担当し、長年、主演のトム・クルーズの通訳として活躍してきた戸田奈津子さん(86才)は“通訳引退”を表明した。字幕翻訳者となってから半世紀が経った彼女が、下積み期間を経て夢を叶えるまでを振り返る。【全5回の第2回。第1回から読む】

大変に難しい仕事だからおやめなさい

“字幕は1秒につき、3〜4文字まで”。厳格なルールのもと、翻訳者たちは日々、どんな言葉を選ぶべきか頭を悩ませる。戸田さんがその魅力に初めて触れたのは、高校生のときだった。第二次大戦直後のウィーンを舞台にしたミステリー映画『第三の男』の魅力にとりつかれ、50回ほど鑑賞するうちに登場人物のせりふや心情を端的に伝える字幕の力に気づかされたのだ。

「この映画の中で《I shouldn’t drink it.It makes me acid.》というせりふがあったのですが、直訳すると“これ(酒)を飲んではいけない。これは私を不機嫌にするから”、となります。ところが字幕では《今夜の酒は荒れそうだ》と訳されていたんです。

 字幕はただの直訳ではなく、せりふのエッセンスを上手に置き換えることだと知りました。言葉が短く連なる字幕にはドラマチックな要素があり、エモーションをかきたてて観客を泣かせたり笑わせたりするものだと気づいたんです」

 字幕翻訳者になりたい一心で津田塾大学の英文科に進学した。ところが、“狭き門”どころか、叩くドアすら見つけられない。思案の末、英語字幕翻訳の第一人者であり、当時、映画の冒頭に字幕翻訳者として頻繁に名前が記されていた清水俊二さんの自宅住所を電話帳で調べ、「字幕の翻訳を仕事にしたい」と手紙を出す。しかし優しくもきっぱりと諭されてしまう。

「あなたの気持ちはわかるけど、大変に難しい仕事だからおやめなさい」

 それでも戸田さんは諦めなかった。卒業後、一度は大学の推薦で第一生命に入社する。ところが「会社勤めは性に合わない」とわずか1年半で退職。化粧品会社の資料翻訳や通信社の原稿書きのアルバイトで食いつなぎ、清水さんには毎年、「字幕の仕事、諦めていません」と書いた年賀状を出し続けた。数年後、清水さんは根負けしたのか『鉄腕アトム』など海外への輸出用のシナリオを英訳する仕事を回してくれるようになる。

「そこから徐々に映画配給会社の知り合いができて、洋画のあらすじをまとめる仕事を請け負うようになりました。30代になると来日した俳優やスタッフの通訳も始めました。いまのように気軽に海外旅行に行けない時代、もちろん留学なんてしたことがないし、英語の勉強だって活字だけ。そんな状態で急に『通訳しろ』と言われても、上手にできるわけがない。すごく苦労しました」

 当時は冷や汗をかきながら請け負っていたと笑うが、そんな通訳業が彼女の運命を大きく変えた。

「1976年に、フランシス・フォード・コッポラ監督がベトナム戦争を描く超大作『地獄の黙示録』の撮影で、日本をたびたび訪れていて、ガイド兼通訳を任されたんです。コッポラ監督はこの映画の音楽を日本の作曲家に依頼したいと考えていて、その作曲家と一緒にフィリピンのロケ現場を訪れ、撮影を見学するという幸運にもめぐまれました」

 そんな戸田さんの様子を見たコッポラ監督は、撮影がすべて終了した後、日本の配給会社にこう言った。

「字幕を彼女に担当させて」

 世界の映画祭を総なめにした巨匠が、まだ駆け出しだった新人通訳者を推薦したのだ。その理由は、常に撮影現場に同行し、監督の話を聞いていたからというものだった。『地獄の黙示録』は1980年に公開されるやいなや、大ヒットする。戸田さんは一躍売れっ子の字幕翻訳者となり、長く憧れていた仕事が次から次へと舞い込むようになる。このとき、戸田さんは43才。20年に及ぶ下積み期間を経て、ついに夢を叶えたのだ。

(第3回へ続く)

文/池田道大 取材/辻本幸路 撮影/田中智久

※女性セブン2022年8月18・25日号

長年にわたりトム・クルーズの通訳として付き添ってきたが
、自身の年齢を明かしたことはなかった(写真/アフロ)

長年にわたりトム・クルーズの通訳として付き添ってきたが 、自身の年齢を明かしたことはなかった(写真/アフロ)

戸田さんを『地獄の黙示録』の字幕翻訳に抜擢してコッポラ監督とは長く親交が続く(時事通信フォト)

戸田さんを『地獄の黙示録』の字幕翻訳に抜擢してコッポラ監督とは長く親交が続く(時事通信フォト)

手帳は

手帳はスティーブン・スピルバーグ監督からの贈り物を約40年にわたって使っている

関連記事

トピックス

靖国神社の春と秋の例大祭、8月15日の終戦の日にはほぼ欠かさず参拝してきた高市早苗・首相(時事通信フォト)
高市早苗・首相「靖国神社電撃参拝プラン」が浮上、“Xデー”は安倍元首相が12年前の在任中に参拝した12月26日か 外交的にも政治日程上も制約が少なくなるタイミング
週刊ポスト
三重県を訪問された天皇皇后両陛下(2025年11月8日、撮影/JMPA)
《季節感あふれるアレンジ術》雅子さまの“秋の装い”、トレンドと歴史が組み合わさったブラウンコーデがすごい理由「スカーフ1枚で見違えるスタイル」【専門家が解説】
NEWSポストセブン
俳優の仲代達矢さん
【追悼】仲代達矢さんが明かしていた“最大のライバル”の存在 「人の10倍努力」して演劇に人生を捧げた名優の肉声
週刊ポスト
10月16日午前、40代の女性歌手が何者かに襲われた。”黒づくめ”の格好をした犯人は現在も逃走を続けている
《ポスターに謎の“バツ印”》「『キャー』と悲鳴が…」「現場にドバッと血のあと」ライブハウス開店待ちの女性シンガーを “黒づくめの男”が襲撃 状況証拠が示唆する犯行の計画性
NEWSポストセブン
全国でクマによる被害が相次いでいる(右の写真はサンプルです)
「熊に喰い尽くされ、骨がむき出しに」「大声をあげても襲ってくる」ベテラン猟師をも襲うクマの“驚くべき高知能”《昭和・平成“人食い熊”事件から学ぶクマ対策》
NEWSポストセブン
オールスターゲーム前のレッドカーペットに大谷翔平とともに登場。夫・翔平の横で際立つ特注ドレス(2025年7月15日)。写真=AP/アフロ
大谷真美子さん、米国生活2年目で洗練されたファッションセンス 眉毛サロン通いも? 高級ブランドの特注ドレスからファストファッションのジャケットまで着こなし【スタイリストが分析】
週刊ポスト
公金還流疑惑がさらに発覚(藤田文武・日本維新の会共同代表/時事通信フォト)
《新たな公金還流疑惑》「維新の会」大阪市議のデザイン会社に藤田文武・共同代表ら議員が総額984万円発注 藤田氏側は「適法だが今後は発注しない」と回答
週刊ポスト
“反日暴言ネット投稿”で注目を集める中国駐大阪総領事
「汚い首は斬ってやる」発言の中国総領事のSNS暴言癖 かつては民主化運動にも参加したリベラル派が40代でタカ派の戦狼外交官に転向 “柔軟な外交官”の評判も
週刊ポスト
超音波スカルプケアデバイスの「ソノリプロ」。強気の「90日間返金保証」の秘密とは──
超音波スカルプケアデバイス「ソノリプロ」開発者が明かす強気の「90日間全額返金保証」をつけられる理由とは《頭皮の気になる部分をケア》
NEWSポストセブン
三田寛子(時事通信フォト)
「あの嫁は何なんだ」「坊っちゃんが可哀想」三田寛子が過ごした苦労続きの新婚時代…新妻・能條愛未を“全力サポート”する理由
NEWSポストセブン
大相撲九州場所
九州場所「17年連続15日皆勤」の溜席の博多美人はなぜ通い続けられるのか 身支度は大変だが「江戸時代にタイムトリップしているような気持ちになれる」と語る
NEWSポストセブン
初代優勝者がつくったカクテル『鳳鳴(ほうめい)』。SUNTORY WORLD WHISKY「碧Ao」(右)をベースに日本の春を象徴する桜を使用したリキュール「KANADE〈奏〉桜」などが使われている
《“バーテンダーNo.1”が決まる》『サントリー ザ・バーテンダーアワード2025』に込められた未来へ続く「洋酒文化伝承」にかける思い
NEWSポストセブン