1980年の箱根駅伝2区で区間新を出す瀬古氏に指示を送る中村氏(左上。写真/共同通信社)
一度、早大を離れた中村は、東京五輪前後には東急陸上部を率いて13人の日本代表を輩出。その後、母校に戻る。聖書や曹洞宗の開祖・道元の書である正法眼蔵を熱心に読み込んでいたため、訓話ではその引用も多かった。
「たとえば“聖書には『二人は一人に勝る』とある。選手が一人でやるより、監督と二人でやるほうがいい。だからお前には俺が必要なんだ”とね。他にも『朽ちない冠を得るために節制する』という聖書の言葉を引きながら、節制の大切さを説いていました」(瀬古)
競技を見る目も確かだった。レース前に「お前はこういう展開で負ける」と指摘され、その通りになることが続いた。
「もう、預言者ですよ。そういうことが続くと、信じてついていこうとなるでしょう」(瀬古)
その結果、瀬古は大学3年、4年で箱根駅伝2区の区間新を叩き出し、学生ながら福岡国際マラソンを2連覇(1978、1979年)。1980年モスクワ五輪のマラソン代表を射止めた。
(第3回につづく)
※週刊ポスト2022年8月19・26日号