1980年の箱根駅伝2区で区間新を出す瀬古に指示を送る中村(左上。写真/共同通信社)
瀬古や中村孝生は1980年モスクワ五輪の代表に決まっていたが、東西冷戦下で日本はボイコット。
4年後の1984年ロス五輪ではエスビー食品から男子マラソンの瀬古、女子マラソンの佐々木七恵らが代表として名を連ねたが、金メダル候補だった瀬古は14位と惨敗した。
「負けたのはすべて私の責任。ただ、中村監督にも重圧があったと思う。おかしいなと思ったのは五輪前の(北海道)常呂町の合宿の時です。練習で40kmを走る日に地元の人たちが応援に集まってくれた。ところが中村監督は“聞いてない”“瀬古の邪魔をするな”と言って、その人たちに向かって大きな石を投げて追い払ったんです。初めてのことで、尋常じゃなかった。今思うと監督にも相当のストレスがあったんでしょうね」(瀬古)
そのロス五輪が中村と世界一を目指す最後のレースとなった。1985年5月、中村は渓流釣り中に足を滑らせ、川に転落して命を落とす。瀬古が言う。
「趣味の釣りの時でよかったのだと思います。競技場で亡くなっていたら怖い顔をしていたと思う。好きなことをやっていた時だから、穏やかな気持ちだったのではないか」
私財でメシを食わせる
中村が長く夏の合宿地にしていたのが、瀬古の話にも登場した常呂町だ。現地で支援したのが、水産加工業者の新谷裕彦だ。
「もともと中村さんは趣味の狩猟で毎年、知床に熊を撃ちに来ていたんです。ある日、“飯を食べさせてほしい”と、うちの番屋に飛び込んできたのが出会い。70年ほど前です。そんな縁でうちの実家がある常呂町で合宿をするようになった。かなり難しい人でしたね」
ただ、熱心さには凄まじいものがあったという。
「他人に厳しいが、自分にも厳しくて贅沢は一切しなかった。終戦直後は闇市で軍需物資を売って大儲けしたそうですが、早大の監督をやるようになった頃にはすっかりなくなっていた。みんな選手の胃袋に消えたそうです。陸上のために身銭を切る人でしたね」(新谷)
今の時代には見られない指導者像だろう。1988年ソウル五輪で現役引退後、早大やエスビーで指導者となった瀬古はこう語る。
「中村監督のやり方しか知らないので、私も選手の前で砂を食べたり、自分の顔を叩いたりしました。でも、みんな引いていた(苦笑)。うわべだけ真似してもダメでした」
ただ、“中村学校”を旧時代のものと切り捨てることにも違和感がある。
「合理的なことばかりじゃなく、昭和の泥臭いやり方からも学ぶことはあると思う。(日本のマラソンが)世界に比べて弱いということは、何かが足りないんですよ」
中村の教えのなかに、「令和の最強軍団」を作るヒントはないか──瀬古は今も考え続けている。
(了。第1回から読む)
※週刊ポスト2022年8月19・26日号