巨人に戻ってくるまで時間がかかった川相昌弘
内海は巨人在籍時、135勝の江川卓に次ぐ133勝(11位)を挙げていた。別所毅彦の221勝を筆頭とした巨人投手の勝利数ベストテンでは第二次世界大戦前後の混乱期のスタルヒン、巨人で引退の3年後にロッテで現役復帰した城之内邦雄、巨人退団後にメジャーに渡った桑田真澄以外は全て巨人でユニフォームを脱いでいる。
「その3人は自分の意志で他球団に渡っています。しかし、内海は望まない形での移籍でした。原監督の3次政権が始まったオフにFAの人的補償で長野久義、内海が巨人から去り、投打の頼れる兄貴分がいなくなった。結果として2019年から巨人は連覇しましたから、2人をプロテクトのリストから外した原監督の判断はある意味、間違いではなかった。
ただ、長い目で見ると本当に2人を放出して良かったのかという疑問は未だに残ります。2人ともドラフトで他球団を拒否して、巨人からの指名を待った。最近の巨人の人気を考えると、今後そのような選手が出てくるかどうかはわからない。いわば、“ジャイアンツ愛”を持った最後の戦士だった。長野も内海も、巨人に残っていれば引退して程なくコーチになる人材です。しかし、他チームに放出してしまった以上、巨人に戻ってくるまで時間を要すると思いますよ」
巨人の主力として活躍し、犠打数の世界記録を持つ川相昌弘は2003年に引退試合を行い、翌年から一軍コーチに就任する予定だった。しかし、コーチ要請をしていた原監督が突然辞任し、宙ぶらりんに。堀内新監督のもとでフロントから二軍コーチを打診されたが、川相は現役続行を決意。巨人で一緒にプレーした落合博満監督が指揮を取る中日に移籍した。2006年まで選手として働き、翌年からはコーチにとなり、2010年まで中日の首脳陣として日本一やリーグ制覇に貢献した。
「川相が巨人に戻ってきたのは2011年でした。本来なら2004年から巨人のコーチになるはずが、7年もライバルチームにいた。この間、巨人は中日に3度優勝をさらわれている。川相の存在と無関係ではないでしょう。
巨人は人的補償で失った一岡竜司が移籍先の広島で大活躍したため、若手を取られたくないという思いが働き、長野や内海をプロテクトしなかったのだと思いますが、コーチになれる人材は簡単には出てこない。内海の引退で巨人もコーチ就任を打診するかもしれませんが、今年も兼任コーチを務めた西武が許すかどうか。
内海は移籍する際に『将来的にはジャイアンツに帰ってこられるように』と話していたように、いつかはまた巨人へ、という思いもあるかもしれませんが、恩師である堀内さんから『西武で第2の内海、第3の内海を育ててほしい』と言われて、巨人にすぐには戻りづらくなったかもしれません」
今オフ、西武と巨人は内海争奪戦を繰り広げるか。