政党政治の実現に邁進
同じ「帝国」に仕える西園寺にとってヴィルヘルム2世の横暴は他人事では無かったろう。彼はビスマルクの手腕を高く評価していた。それが「君主のきまぐれ」で解任されてしまった。もちろんこの時点(第一次世界大戦は24年後)では、ドイツが今後きわめて不利な状況で世界大戦に追い込まれることも、その敗北でドイツ皇室が消滅することも予見できたわけでは無いだろう。しかし国家にとってきわめて重要な存在がこのような形で解任されることは、同じ君主国である大日本帝国においても起こり得る事態であり、であるからこそこんな事態は避けるようにすべきだ、と痛感したに違いない。
ともあれ西園寺がドイツ公使在任中の一八八九年(明治22)、大日本帝国憲法は発布された。幸徳秋水が師である中江兆民のことを書いた『兆民先生』には、公表された憲法を見た兆民は「通読一遍唯だ苦笑する耳」だったと書かれている。では、その兆民と親友であり東洋自由新聞では同志だった西園寺は、この憲法をどのように評価したのか? 不思議なことに、西園寺がこの憲法を評した言葉は膨大な著作や、彼に関する記録のなかには見あたらないという。
しかし、逆に言えば不思議では無いのかもしれない。なぜなら大日本帝国憲法は欽定憲法、つまり明治天皇が作成し国民に与えたという形をとっているからだ。皇室の藩屏たる身が「天皇からのくだされもの」を無闇に批判すべきでは無いと考えたのではないか。だが、こうした憲法の下でも議会政治を推進し政党政治を確立していくことは不可能では無い。幸いにも「親分」の伊藤博文はあきらかにそう考えていた。ならば、伊藤の求めに応じて政党政治実現に協力していくのが西園寺にとってもっとも正しい道ということになる。
一八九一年(明治24)、ドイツ公使の任を終えて帰朝した西園寺は法典調査会の副総裁に就任し、貴族院の副議長も務めた。侯爵でもある西園寺は同時に貴族院の勅選議員でもあったからだ。一方、伊藤は初代総理大臣を務めたあと、後に元老と呼ばれるようになった黒田清隆(第2代)、山県有朋(第3代)、松方正義(第4代)に続いて第五代総理となり、第二次伊藤内閣を指揮していた。日清戦争開戦直前である。
もちろん、まだ衆議院選挙で最多議席を獲得した政党の党首が内閣総理大臣に指名されるというルールは無い。いや、帝国憲法にはすでに述べたように、内閣総理大臣をどうやって選ぶかどころか内閣総理大臣という言葉自体が登場しない。「大臣」に関しては、第五十五条に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあるだけだ。だから保守派は「左大臣」「右大臣」のままでいいと考える者すらいた。
それに対し、内閣法を制定し内閣総理大臣が他の大臣を指揮する形を作らせたのは、ほかならぬ伊藤博文であった。しかし、その伊藤も当初は政党政治では無く、天皇の意向に基づいて作られた内閣が政党の動向など無視して国家の運営をするのが正しい、と考えていた。これを超然主義という。
〈超然主義 ちょうぜんしゅぎ
大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が政党の影響をうけずに政治を運用しようとした政治姿勢をいう。1889年2月12日、ときの黒田清隆首相が地方長官を鹿鳴館に集めて演説したなかで、〈政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず〉とのべたことから“超然主義”が一つの政治姿勢をあらわす言葉として使われるようになった。大日本帝国憲法は政党内閣を制度として認めておらず、藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党をいみきらう傾向が強かったが、政党の政治的力はしだいに強まり、日清戦争後になると超然主義を持続することは困難になった。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者中塚明)
しかし、伊藤はその後世界の大勢を見習い、日本も欧米流の政党政治をめざすべきだと考えるようになり、ライバル山県有朋や「弟子」の桂太郎との対立が鮮明化するようになる。伊藤がそのように方向転換しようと考えていたこの時期、内閣の文部大臣を務めていた井上毅が病気のため任務に耐えられなくなり辞任した(その後ほどなくして病死)。井上は教育勅語の実質的な選定者でもあり、井上ほどの学識を持つ官僚はめったにいるものではない。そこで伊藤が白羽の矢を立てたのが、西園寺であった。大臣ともなればもはや官僚では無く政治家だ。つまり、西園寺の政治家人生は伊藤内閣の文部大臣としてスタートしたのである。
(第1362号へ続く)
※週刊ポスト2022年12月2日号