華族一覧

【華族】に関するニュースを集めたページです。

秋篠宮さまと紀子さまの学習院への思いとは(写真/雑誌協会代表取材)
学習院を避ける秋篠宮さま「初等科時代の厳しい剣道の授業」が影響か
 2月16日、秋篠宮家の長男・悠仁さまが4月から国立の筑波大学附属高校(筑附高)に進学すると、宮内庁が発表した。悠仁さまは現在通われているお水女子大学附属中学校と筑附高との間の提携校進学制度に出願し、2月13日に同校で行われた学力検査を受けた結果、合格したという。これについて皇室と関係が深い学習院関係者はこうつぶやいた。「やはり筑波を受けたんですか。学習院高等科には、外部からの入学枠が若干名あるため、可能性もなくはないと思っていたのですが……」 戦前の『皇族就学令』には、「皇族の男女は学習院または女子学習院で教育を受ける」という旨が記されていた。そんな“皇族のための学校”であったはずの学習院を避け、2010年に悠仁さまがお茶の水女子大学の附属幼稚園に入園されてから、間もなく12年が経つ。 悠仁さまの入園と同時に、長女の眞子さんはAO入試で国際基督教大学(ICU)に入学。2015年には、次女の佳子さまが学習院大学を中途退学してまでICUに入学し直された。秋篠宮家と学習院の間には、かくも深き断絶がある。「学習院のルーツは、京都に設けられた公家のための教育機関です。その後、華族向けの学校に変わり、1877年に現在の校名になっています。戦後に華族制度が廃止されると、一般にも門戸が開かれましたが“皇族のための学校”であることに変わりはなかった。上皇陛下も天皇陛下も、学習院に通われました」(前出・学習院関係者) 秋篠宮さまもまた、幼稚園から大学までを学習院で学ばれた。「かなりわんぱくな男の子で、幼稚園の頃はタイガーマスクごっこが大のお気に入り。お友達を泣かせた際には、美智子さまが何度も謝罪の電話をかけられたそうです」(宮内庁関係者) この頃から、秋篠宮さまと学習院の間には小さな亀裂が入り始めていた。「初等科時代に、剣道の授業で厳しい指導を受け、それが大きなトラウマになったという噂があります」(前出・学習院関係者)紀子さまの居心地の悪さ 大学進学時には、秋篠宮さまはご自身の興味がおありの分野を学ぶため、学習院とは別の大学を希望された。「しかし、結局は父親である上皇陛下に反対されてそのまま学習院に進学されました。このとき不完全燃焼なお気持ちを経験されたからこそ、お子さま方の進路に関しては“本人の自由意思に任せる”という姿勢を貫かれている」(皇室記者) 煮え切らない思いを抱えながら進学された秋篠宮さま。1985年、大学構内の書店で一学年下の紀子さまと出会われる。おふたりは、秋篠宮さまが主宰する自然文化研究会の活動を通じて親交を深めた。「紀子さまは東宮御所にも足を運ばれるようになりました。美智子さまは“きこちゃん”とお呼びになり、実の娘のように接していたそうです。東宮御所の滞在時間は徐々に延び、お帰りは深夜になることもあったといいます」(前出・宮内庁関係者) おふたりは1989年に婚約。当時世間では“紀子さまフィーバー”が巻き起こったものの、学内には違った雰囲気もただよっていたという。別の学習院関係者が振り返る。「当時の紀子さまは、無理をして学習院らしく振る舞われているように見受けられました。例えば、報道陣に“ごきげんよう”と挨拶されたシーン。本来“ごきげんよう”は、親しい間柄の方への挨拶なんです。外の方に使うと、わざとらしい印象を持たれてしまうから、普通は使わない。先祖代々学習院というお家柄の方は、違和感を覚えていたのではないでしょうか。紀子さまが、そういった類の居心地の悪さを感じて、学習院に悪印象を持たれた可能性は充分あります」 ご夫妻は1990年にご成婚、翌1991年には眞子さんが誕生した。「秋篠宮さまがこだわってつけられた『眞』の字には、天性のものを失わず、自然に、飾ることなく、ありのままに人生を歩んでほしいという思いが込められているそうです。慣例にとらわれることなく子供の自主性に任せるという教育方針と通じるものがある。 これは、秋篠宮さまご自身が“伝統重視”の学習院で窮屈さを感じられ、同じ思いをさせたくないと願われたゆえの方針だったのではないでしょうか。思えばこのときから、秋篠宮さまの“暗闘”が始まっていたのかもしれません」(皇室ジャーナリスト)※女性セブン2022年3月3日号
2022.02.17 07:00
女性セブン
「資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一(時事通信フォト)
”資本主義の父”渋沢栄一が「生みの苦しみ」を味わった意外な有名企業
“資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一は、現みずほ銀行やJRグループなど500社以上にも及ぶ企業の設立・運営に関わり、今もその6割が企業活動を続けている。だが、決して順風満帆の船出とはいかない企業も多かったという。偉人研究家の真山知幸氏が、渋沢が“生みの苦しみ”を味わった有名企業を紹介する。 * * * 現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の視聴率が好調だ。スポットライトが当たっているのは、2024年から新たに一万円札の顔となる、渋沢栄一である。 渋沢は1873(明治6)年、日本初の銀行として、第一国立銀行を設立したのを皮切りに、様々な会社の設立に携わった。その数は、実に500社以上にも及ぶ。 言うまでもなく、どんな会社も立ち上げには、幾多の困難を伴う。なにしろ「株式会社」がまだ浸透していない時代である。今でこそ、1万人、2万人といった社員を抱える、名だたる大企業も、生まれしときは難産であった。「資本主義の父」と呼ばれる渋沢だが、多くの会社の誕生に立ち会った産婆役を果たしたともいえるだろう。そのなかから、今回は大手2社の誕生秘話をお届けする。 渋沢栄一といえば、日本初の銀行設立など、成功例が語られがちだが、うまくいった例ばかりではない。渋沢は幕末、一橋家の家臣としてパリに随行。道中のエジプトやパリで初めて鉄道に乗車し、その便利さに衝撃を受けた。そんな経験から、渋沢は鉄道事業にも多く携わることになるが、最初の鉄道経営は実現に至らなかった。 その代わりに渋沢は、出資者の華族から「ほかに何か有望な新事業はないか」と相談されることになる。そこで渋沢が勧めたのが、海上保険だ。理解されなかった「海上保険」の事業 幕末から明治においては「荷為替」という決済システムがとられており、米が為替の役割を果たしていた。そのため、米を積んだ船が事故に遭えば、仲介業者や金融業者は大きな損害をこうむることになる。 安心して取引するためには、保険制度が必要であり、事業を興せば必ずニーズがあると渋沢は考えた。だが、華族たちはどうもピンとこなかったようだ。渋沢は、こんな疑問をぶつけられることになる。「『危険なことはするな』と一方でいっておきながら、『その危険を保険する保険会社を作れ」というのは、これくらい矛盾した話はないじゃないか」 こういわれてしまうと、なかなか保険事業の説明というのは難しいものである。何も華族たちの理解力が乏しいわけではない。教育者の福沢諭吉も、渋沢から熱弁されたが「結局、渋沢は利己主義から主張するのである」と取り合わなかった。 渋沢とともに海上保険会社を立ち上げることになる岩崎弥太郎ですら、当初は懐疑的だったらしい。こんなふうに言われたと、渋沢はのちに回想している。「どうも保険事業をはじめてみたところで、資本を出す人もなかろうし、また保険を荷物につける人も十分にあるか疑う。自分の考えでは時期尚早である」第一次大戦で保険ニーズが高まった 華族たちからしても、よくわからない事業に出資するわけにはいかないから、どうしても慎重になる。それでも必ず成功する自信があった渋沢は、「多くの人が保険に入りたい」と思ってもらえれば成り立つ事業であることを、こんな言い回しで説明した。「多数が被保険者になるかならないかが問題である。もしそれが少ないと、危険がないとはいえない。それゆえ力ある人でなければ、ここに資金を出すわけにはいかない。保険業は危険がないわけにはいかないが、新しい事業であるから将来大いに有望である」 丁寧な説明を重ねながら、最もリスクの少ないプランを渋沢は提示。納得した華族たちからの出資を得ることに成功した。 1879(明治12)年に資本金60万円をもって東京海上保険社を設立。株主には岩崎弥太郎をはじめ、三菱関係者や華族団が加わったほか、安田善次郎や大倉喜八郎などの財界人も名を連ねた。香港や上海、そして、ロンドン、パリ、ニューヨークと支店を作って順調に業績を伸ばしていく。 第一次世界大戦が起きると、海上保険に対する需要はさらに高まることになった。1918(大正7)年には、東京海上火災保険と社名を変更して、現在に至っている。 ちなみに、渋沢の保険事業にポジティブな反応をした貴重な一人が、大隈重信である。実現にいたっては、大隈のバックアップも心強かったことだろう。学問の発達も支えると考えた製紙事業「海上保険」のニーズを見事に察知した渋沢だが、目をつけた有望な事業は、ほかにもまだまだあった。そのうちの一つが、製紙業である。 明治の世を見渡すと、紙幣、新聞、雑誌と紙のニーズが必ず高まると渋沢は予見。また、製紙業の設立が、学問の発展には欠かせないとまで考えた。「印刷が便利で速いということが大いに関係してくる。では印刷の価格が安く、かつ便利で速いために必要なのは何かといえば、それは紙を製造する事業が大いに関係する」 そこで渋沢は明治5(1872)年に官営で製紙事業を行うべく、設立願書を提出。翌年の明治6(1873)年に、抄紙会社を設立した。これが、現在の王子製紙株式会社と日本製紙株式会社のルーツとなる。 工場の場所を決めるにあたっては、渋沢自ら各地を調査。その結果、工場用水にきれいで良質な千川上水が利用できることから、王子に決定した。鬼気迫る技術者とのやりとり 誤算だったのは、イギリス人の機械技師とアメリカ人の製紙技師の腕が劣っていたことだ。特にアメリカ人技師の技術に問題があった。建築した工場に最新の機械を備え付けたが、まったくうまくいかない。出てくる紙の質は劣悪で、すぐに切れてしまうのだ。 二人を雇い入れたのは渋沢である。温厚な渋沢も、いい加減な仕事には我慢ならなかった。なにしろ、この工場がうまくいかなければ、抄紙会社は倒産を迎えるばかりか、出資している第一国立銀行の経営も危なくなる。アメリカ人技師に、渋沢は詰めよった。「あなたは、経験ある外国の紙漉き技師と聞いている。だからこそ、相当な給料で雇い入れたのだ。機械も最新のイギリス製を使っている。あなたの技術に問題があるとしか、考えられない」 それでもなお、アメリカ技師は「職工が悪いのです、職工が私の命令を聞かないから」と言い訳するが、渋沢はごまかされない。「職工はあなたの命令をちゃんと聞いている。原料の製造が悪いか、とか、薬品の調合がよくないかなどに原因があるのだろう」 そういって、可能性を一つひとつ指摘。解雇も辞さない渋沢の姿勢に、アメリカ技師も腹をくくった。「一週間待ってください。それでもうまくできないなら、解雇されても不服は言いません」 一週間後、何とか製品として成り立つくらいの紙は出てきた。だが、まだまだ十分な品質とは言えない。「苦心して紙を製造してはみたが、値段が安いため、採算がとれない。毎日のように損失を重ねて、株主からは叱責される。事業は一向に振るわない。将来に希望を持っていたものの、当面の経営維持にはまったく困ってしまった」 渋沢の苦悩は続く。良質な紙が出てくるようになるまでは、1875(明治8)年の初めまで待たなければならなかったという。「理想を実現するのが人の務め」 現代では、保険の重要性を説くまでもなく誰もが理解しているし、紙は当たり前のようにスピーディに大量生産されている。だが、そんな常識が作られるまでには、渋沢の相当な努力があった。 新事業がなかなか理解されなかったり、アイデアに技術が追い付かなかったりするのは、何も明治時代に限らないだろう。今、未曾有のコロナ禍のなか、現状を打破すべく多くの起業家たちが奮闘しているに違いない。そのなかには、何年か先には大事業に成長するものもあるはずだ。 壁にぶちあたっても、仲間と知恵を絞りながら、乗り越えていってほしい。大切なのは理想を持ち、それを実現させることである。渋沢の名言で本稿を締めたい。「およそ目的には、理想が伴わねばならない。その理想を実現するのが、人の務めである」【参考文献】(1)渋沢栄一、守屋淳『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)(2)渋沢栄一『青淵論叢 道徳経済合一説』(講談社学術文庫)(3)幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)(4)木村昌人『渋沢栄一 日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書)(5)橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書)(6)鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫)(7)渋澤健『渋沢栄一 100の訓言』(日経ビジネス人文庫)(8)岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)【プロフィール】真山知幸(まやま・ともゆき)/著述家、偉人研究家。1979年兵庫県生まれ。業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行う。『ざんねんな偉人伝』『君の歳にあの偉人は何を語ったか』『企業として見た戦国大名』『ざんねんな三国志』ほか著書多数。
2021.02.28 07:00
NEWSポストセブン
【今週の読みたい本】ヤマザキマリがコロナで「たちどまって考えたこと」を綴った新書など4冊
【今週の読みたい本】ヤマザキマリがコロナで「たちどまって考えたこと」を綴った新書など4冊
気が付けばもうすぐ12月。いつもとは違う年末になりそうな今年は自宅で過ごす時間が多くなりそう。テレビや映画を見るのも楽しいが、たまには本でも読んでみませんか?そこで今、読んでおきたい4冊をご紹介。人気作家のエッセイや、文豪が書き上げた恋愛小説など多ジャンルのものをピックアップ。お気に入りの1冊が見つかりますように。【目次】【新書】『たちどまって考える』ヤマザキマリ【単行本】『見果てぬ花』浅田次郎【新書】『民主主義とは何か』 宇野重規【文庫本】『春の雪 豊饒(ほうじょう)の海(一)』三島由紀夫◆【新書】『たちどまって考える』ヤマザキマリ◆新型コロナをきっかけに考えたこと。 不条理な状況下から名作や名画は生まれる著者はコロナ禍で日本滞在を余儀なくされた。イタリア人がマスクを嫌う理由を解説し、国の指導者が持つべき弁証力(=教養)を論じ、映画や本に多く触れる中、自由を拘束された状態で触れる方がずっと感慨が深いことも自覚する。小津安二郎や黒澤明、三島由紀夫や安部公房、小松左京など「(戦後という)不条理のもとでしか育たない感性がある」との明察にはっとさせられる。◆【単行本】『見果てぬ花』浅田次郎◆落雷、愛猫失踪、5kg減のダイエット。 笑いとぼやきと落語的オチの日常仕事もままならない猛暑の午後、空がにわかにかき曇る。頭上で炸裂する稲妻、落雷、そして停電。クーラーもテレビも温水洗浄便座も使えず、冷蔵庫の開閉など論外。仕方ない、健康ランドの湯につかりながら復旧を待つかと支度して車庫に行けば、ムム、電動シャッターという”壁”が。そんなオチに大笑い。JAL機内誌に連載する人気エッセイ集の第5弾。今回もクスクス。◆【新書】『民主主義とは何か』 宇野重規◆デモクラシーとは主義ではなく統治形態のこと。 「参加と義務」の有り様が問われる著者は任命拒否された日本学術会議の候補者の一人。その直後から著者の講義動画がYouTubeで見られるようになり、ワォなんてお得と夢中になった。驚くことにその講義の口調とこの本の文体がまったく同じ。人なつっこい。古代ギリシャから読むのがさすがに辛いなら、フランス革命あたりからでも。世界はまだ民主主義国家のほうが少数。ポピュリズムとの親和性も考えたい。◆【文庫本】『春の雪 豊饒(ほうじょう)の海(一)』三島由紀夫◆古典美を追求した恋愛小説。 物語は松枝清顕が転生する第二巻へと続く三島の自決は1970年11月25日。今年没後50年になるのを機に、大河の4部作『豊饒の海』が新装版に。この第一巻では、新興華族(元武家)の子息で18才の松枝清顕と、由緒正しい公家華族の令嬢で2才年上の綾倉聡子の禁断の恋を華麗に端正に描く。三島の貴族精神が横溢、小池真理子さんは新解説で「彼らの思いつめた吐息が、こちらのうなじにそっとふきかけられてくる」と。文/温水ゆかり※女性セブン2020年12月3日号●【今週の読みたい本】直木賞作家・辻村深月さんの”普段着エッセイ”他、この秋のおすすめ4冊●【30秒心理テスト】ダイエットの敵は自分自身!あなたの食べすぎの原因になっている感情は●お尻、太もも、二の腕もラクに筋トレ!エキセントリックトレーニングとは?
2020.11.28 20:00
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神社界も後継者問題は深刻
靖国神社、宮司緊急搬送で「トップ不在の例大祭」異常事態
 靖国神社の宮司が倒れた──そんな情報が神社界を駆け巡ったのは9月初旬のことだった。「宮司の山口建史氏(72)が、8月31日に自宅で転倒して頸髄を損傷したとの情報です。山口氏は緊急搬送されたが、手足にしびれが残っていると聞きました」(ある神主) 靖国神社社務所に尋ねると、山口氏の負傷の事実を認め、「宮司は現在、入院、加療中です。社務復帰に向けた静養をしております」と回答した。靖国神社の宮司は2代続けて定年を前に退任しており、「山口氏も続いてしまわないか」と心配されているという。 山口氏の前任・小堀邦夫氏は、天皇(現・上皇)への“不敬発言”により2018年10月に辞任。その前任の徳川康久氏も、定年前の2018年2月に退任に追い込まれた。「山口氏はそんな靖国神社を立て直そうと熱心に職務に打ち込み、参拝者からは『誠実な宮司さんだ』と評判がよかった。しかし、10月に行なわれる靖国の重要行事・秋季例大祭までに、山口氏の体調が十分に回復しない可能性もある。もし不在のまま例大祭が実施されれば、山口氏の進退に関わる」(前出の神主)『宗教問題』編集長の小川寛大氏が後任人事の難しさを指摘する。「靖国神社は格式を重んじるため、戦後は旧華族を宮司に招き、靖国内からは就任しない例が多かったが、徳川氏の退任以降、旧華族とは距離ができている。山口氏は靖国出身だったが、内部からの就任はふさわしくないとする声も多い。そこで手っ取り早いのは神社本庁から人を送ってもらう手段ですが、靖国は神社本庁に加盟しておらず、独立性を損なう可能性もあるため、反対意見も根強い」 3代連続の“途中離脱”となれば、創立151年目にして最大のピンチになりそうだ。※週刊ポスト2020年10月2日号
2020.09.21 16:00
週刊ポスト
愛子さま「学習院内部進学に一本化」情報、小室さんも影響か
愛子さま「学習院内部進学に一本化」情報、小室さんも影響か
 12月1日、愛子内親王が18歳の誕生日を迎えた。来年3月に学習院女子高等科を卒業し、4月からの進学先に注目が集まる中、皇室担当記者の間では「すでに大学を決められたようだ」との情報が飛び交っている。 進学先としてはこれまで数々の有名大学が挙がってきた。「愛子さまは学習院女子高等科で文系クラスに所属され、トップクラスの成績を残されています。周囲からは『東京大学を狙える』と期待する声もあった。他にも一橋大、筑波大といった難関国立大や、上智大などの有名私立大の名前も取り沙汰されてきた」(皇室ジャーナリスト) そうした中で、皇室担当記者の間では「学習院大学への内部進学に一本化されたようだ」とみられているという。皇室担当記者が明かす。「もし他の大学に進学されるのであれば、学内で開かれる外部受験希望者の説明会に参加する。しかし、愛子さまは出席されていないため、内部進学が濃厚とみられているのです。 ご決断の背景には、警備態勢の問題がありそうです。今年4月、秋篠宮家の長男・悠仁さまが進学されたお茶の水女子附属中で、悠仁さまの机の上に刃物が2本置かれる事件が起きた。これまで多くの皇族が通ってきた学習院は警備が充実しており、同様の事態になることは考えにくい。とくに新天皇が即位され、愛子さまが“天皇のご息女”となられた5月以降は、警備の人員を増やしているようです。愛子さまが初等科に入学された当初も、教室のドアに鍵が新設されるなど、万全の“愛子さまシフト”が敷かれた」◆明治天皇の勅諭で開校 学習院の万全の“受け入れ態勢”の背景には、「皇族が伝統的に通ってきた歴史」がある。皇室ジャーナリストの神田秀一氏が語る。「学習院は1847年(弘化4年)、公家の教育機関として『学習所』の名で京都に開校しました。明治時代に華族・公家が東京に居住を移すと、1877年(明治10年)に明治天皇、昭憲皇太后のご臨席のもと、東京・神田錦町で開業式が行なわれました。 その後、1926年(大正15年)に『皇族就学令』が公布され、皇族の子女が入学するよう定められた時期もありましたが、戦後に廃止されて財団法人に移行し、現在まで多くの皇族が通われています」 1964年(昭和39年)には、現在の天皇が幼稚園入園の時期を迎えたのに合わせ、新たに学習院幼稚園が開設された。それほどに皇室との結びつきは深い。 一方、学習院以外に進学した皇族は少ない。高円宮家の長女・承子女王(33)は学習院女子高等科から英エジンバラ大留学を経て、皇族で初めて早稲田大に進学した。皇籍を離脱し、11月に第一子を出産した同家三女・守谷絢子さん(29)は城西国際大を卒業している。“非学習院”の姿勢が顕著なのが秋篠宮家だ。長女・眞子内親王(28)は国際基督教大(ICU)に進学。次女・佳子内親王(24)も学習院大を中退してICUに再入学した。そして悠仁親王は幼稚園から現在までお茶の水女子大附属に通っている。 愛子内親王の進学先選びには「秋篠宮家の方針が大きく影響した」とみている関係者は少なくない。「眞子さまはICUで婚約内定者の小室圭さん(28)と出会った。多くの学生が行き交うキャンパスでは宮内庁や皇宮警察も小室さんの身辺を細かく把握できず、それが現在の結婚延期トラブルに繋がってしまったという見方もあります。 愛子さまも進学先で将来の結婚相手と出会う可能性がある。天皇・皇后両陛下や宮内庁関係者にとっては、ご学友の顔がわかる学習院のほうが安心という判断だったのではないか」(前出・皇室担当記者) 進学先について宮内庁に問い合わせたところ「現時点でお答えすることはありません」(総務課報道室)と回答した。愛子内親王の進学先は、年明けから2月頃に正式に発表される見込みだ。※週刊ポスト2019年12月13日号
2019.12.02 11:00
週刊ポスト
上皇・上皇后両陛下の半生を描くドキュメントコミック
『明仁天皇物語』原作者語る 両陛下が成し遂げた「近代化」
 2016年8月に「譲位」のお気持ちを発表された明仁天皇は、今年5月1日の皇位継承によって上皇陛下となられた。戦時下で過ごした少年時代、美智子さまとのご成婚、象徴天皇としての在り方を模索する日々、そして譲位のお気持ち発表――。国民の心に寄り添って歩まれてきた明仁天皇の半生を追うドキュメントコミック『明仁天皇物語』が完成した。原作は『ビッグコミックオリジナル』で連載中の『昭和天皇物語』(作・能條純一氏)にも協力している永福一成氏が担当。古屋兎丸氏の美しく斬新なタッチで、明仁天皇の人生の旅路が描かれる。 明仁天皇の若き日々を中心に綴られる『明仁天皇物語』だが、美智子さまとのエピソードも多く描かれている。お二人は国民に何をもたらしたのか――。原作者・永福氏に、明仁天皇と美智子さまの「夫婦像」について、お話をうかがった。 * * *――明仁天皇と美智子さまの「夫婦像」を一言で表現するならば、どんな言葉になると思いますか?永福氏:一言でいえば「仲睦まじいご夫婦」に尽きると思います。美智子さまが民間ご出身であることや、皇室改革に伴うバッシングなどご苦労なさった点が多かっただろうと思いますが、それをお二人で乗り越えられてきたからこそ、ニュースの画像を通じても仲睦まじさが画面からにじみ出ているように感じるのではないでしょうか。 明仁天皇のいわゆる「最後の会見」は、美智子さまへの感謝と労いのお言葉にあふれていました。いつもは冷静に語りかけられる明仁天皇が、珍しく感情を露わにされ、感極まったかのような表情を浮かべられた会見は、見ている私たちの胸を強く打ちましたね。――民間から初めて皇室に嫁がれた美智子さまは、一体どういう点で画期的だったのでしょうか?永福氏:これは時代背景が大いに関係していると思います。高度経済成長に伴いお茶の間にテレビが浸透しました。その結果、美智子妃(及び皇太子一家)の動静は常に国民の目にさらされることになりました。 ご婚約内定以来、爆発的なミッチー・ブームが日本中を席巻。美智子妃の生家である正田家は今でいうところのセレブで、決して庶民的な一般家庭ではありませんが、それでも一般国民と同じ“民間”出身ということで圧倒的な国民の支持を受けました。 従来通りの旧華族・皇族出身の妃であれば、これほどの関心と支持は得られなかったと思います。もっとも、過剰なバッシングにさらされることもなかったかも知れませんが。 画期的だったのは、美智子さまがというよりもご結婚当初の明仁皇太子殿下・美智子妃殿下のご夫婦の在り方なのではないでしょうか。私たちはつい「天皇皇后両陛下」とお二人を合わせてお呼びすることが多いですが、それはお二人がいつも連れ立ってご公務をなさっているのを見慣れているからで、本来は天皇陛下と皇后陛下(あるいは皇太子殿下と妃殿下)は別々に行動するものでした。「行幸」と「行啓」で言い方も違います。 戦前の天皇は主に軍事施設視察や演習の統監、皇后は紡績工場視察や福祉施設訪問と役割分担されていました。戦後は軍事的な視察はなくなり、特に両殿下は、お二人で障がいを持った人の施設などに慰問に行かれることが多かった。もちろん、こうしたいわゆる「平成流」は美智子さま以外ではあり得なかったでしょうね。――明仁天皇と美智子さまは、それまでの皇室の何を変え、何をもたらしたのでしょうか?永福氏:本当の意味での「皇室の近代化」が挙げられるのではないでしょうか。これもお二人で成し遂げられたことだと思います。「自分たちの子どもを自分たちの手で育てる」という、一般人には当たり前のことが、明仁皇太子殿下・美智子妃殿下の代になってやっと叶えられた。それは先に皇室改革を進めていた父の昭和天皇でも成しえなかったことです。 両殿下は「乳人(めのと)制度」「傅育官(ふいくかん)制度」を廃止され、開かれた皇室を実現されましたが、実際には相当な抵抗があったと思います。おそらく明仁殿下の持ち前の科学的な論理で「なぜ旧制度を廃止しなければならないのか」を説き、「肝の据わった気の強さ」で改革を断行されたのだと思いますが、それには何よりもパートナーの理解と協力が不可欠だったでしょう。その意味で、明仁天皇と美智子さまは本当にお互いにとって良き伴侶だったんだと思います。――明仁天皇と美智子さまは、国民にどんな影響を与えたのでしょうか?永福氏:自然災害が多発した平成時代。お二人の後半生は大半が国内被災地への慰問と、戦争被害者への慰霊の旅に費やされていました。 被災地の避難所で膝を折り被災者を励ますお二人の姿に、保守層の一部は眉をひそめたようですが、多くの国民は感動を持って受け止めました。避難所の体育館にお二人が現れると場内がワッと沸き立つような雰囲気に包まれるのをテレビで見て、まるで魔法のようだと思ったものです。数千人をいっぺんに癒すことができる。もう最強最高のヒーラーですよね。 明仁天皇・美智子皇后両陛下は、天皇や皇室をかつてないほど身近に感じさせましたし、国際親善の舞台で果たされた役割もとても大きかった。天皇制の是非はともかく、お二人の存在が私たち国民や世界の人々に「天皇」の存在を大きく再認識させたことは間違いありません。 それから、明仁天皇は即位後「朝見の儀」で「憲法を守る」という当たり前のことを仰り、国民に宣言した通りにそれを全うされました。作品中でも触れましたが、日本国憲法の基本原則が「国民主権」と「基本的人権の尊重」、「平和主義」だとすると、憲法を守るということは「主権在民を侵さず、人権を守り、戦争をしない」ということですよね。このシンプルだけど非常に強度があるロジックを、戦争の悲惨さを知る陛下は「象徴天皇」の振る舞いとしてずっと意識されていたように思えます。 陛下の憲法に対する向き合いや、そもそも「開かれた皇室」自体に懐疑的な人たちは昔からいますが、そのお姿が私たちに与えた影響は少なからずあったんじゃないでしょうか。『明仁天皇物語』で、まずはコミック作品としてそうした現在の上皇・上皇后両陛下の魅力を、読者にきちんと伝えることができていれば本望です。『明仁天皇物語』(小学館)原作・永福一成 作画・古屋兎丸 監修・志波秀宇全ての国民に愛され、また、国民とともに歩まれてきた明仁上皇陛下と美智子上皇后陛下。お二人の苦難の旅路を描いた本格ドキュメントコミック。※『明仁天皇物語』の原作者・永福一成氏と作画・古屋兎丸氏による制作裏話トークイベントが開催されます。抽選でサイン入り色紙プレゼントがあるほか、サイン入りコミックスも先着20名に販売。日時:2019年10月15日(火)18:00会場、19:00開演会場:「ロフトプラスワン」東京都新宿区歌舞伎町1-14-7 林ビルB2チケット:前売1800円、当日2300円詳細・チケット購入は https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/126733
2019.06.30 07:00
NEWSポストセブン
天皇皇后両陛下 御成婚60年の歩みと共に歩んだ日本人の幸福
天皇皇后両陛下 御成婚60年の歩みと共に歩んだ日本人の幸福
 天皇御即位満30年、御成婚満60年、そして、約200年ぶりの譲位による御代替わりという節目を迎える。天皇皇后両陛下が国民に思いを寄せて辿られた足跡は、人々の幸せと安寧を祈る、長く慈愛に満ちた旅であり、それはまさに、日本国民にとって幸福な日々だった。喜びも哀しみもすべてを包み込むように歩まれた姿を振り返る。 この30年、天皇皇后両陛下は国民の幸せを祈り、国民に寄り添ってこられた。お2人の出会いは、軽井沢のテニスコートだった。1958(昭和33)年に婚約が内定すると「ミッチー・ブーム」が巻き起こった。「皇后陛下は日清製粉社長の御令嬢でした。皇族や華族の家柄ではない、初の民間出身である皇太子妃を国民は歓迎しました」(皇室ジャーナリスト・山下晋司氏) 御結婚後は皇室の慣例であった乳母制度を廃止。東宮御所に台所を作られるなど、国民と同じく家族との時間を過ごされた。「こうした新しい皇室の家族像は、国民が親近感を抱くひとつの要因になりました」(山下氏) 即位後の1991(平成3)年7月10日、両陛下は長崎県雲仙・普賢岳噴火災害の被災地を訪れた。災害発生から1か月。火山活動が続く状況下での訪問に、宮内庁をはじめ専門家から反対の声があがったが、陛下の「どうしても」という強い意志で実現した。 皇室ジャーナリストの久能靖氏は「象徴天皇の在り方を突き詰めてお考えになってのことでした」と話す。「天皇の務めとは、シンボルとしてただ存在することではなく、苦しむ国民にいち早く寄り添うこととの思いから、すぐにお見舞いに行かれたのです」(久能氏) 体育館の床に膝をつき、被災者と同じ目線で励ます姿が話題となった。「こうしたお姿は、昭和天皇の時代には考えられないことでした。当時は批判もありましたが、陛下はご自身の信念に基づき、国民と共に歩む姿勢を貫いてこられました」(久能氏) 両陛下は被災地に幾度も足を運び、戦没者への慰霊を重ねてきた。毎年の地方公務「三大行幸啓」に合わせて視察することも多く、福祉施設をこれまでに500か所以上訪れている。「両陛下は訪問された先々で、寸暇を惜しんで多くの人に会い、沿道の人々の歓迎にお応えになりました」(山下氏) 昨年12月、天皇としては最後の誕生日会見で、陛下は国民への感謝の思いをこう述べられた。「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に、衷心より感謝する」※週刊ポスト2019年5月3・10日号
2019.04.30 07:00
週刊ポスト
江戸東京坂道さんぽ、東京23区内に名のある坂は約640
江戸東京坂道さんぽ、東京23区内に名のある坂は約640
 ぶらり街歩きには最適な季節。三井財閥総帥の玄孫であるタレント・團遥香が「日本坂道学会」会長の山野勝氏を案内人に、東京の坂を歩いた。山野:東京23区には、名前が付く坂が約640あるんですよ。團:そんなに多いのですか!山野:このうち、江戸時代に名前が付いた坂は約500に上ります。明治以降に命名された坂は約140。この胸突坂は元禄10(1697)年にできた名坂です。團:タイムスリップしたかのような、江戸情緒が感じられる美しい坂ですね。勾配がかなり急ですが、なぜ胸突坂という名前になったのでしょうか?山野:ここは江戸屈指の急坂。胸を突き出すようにして歩かないと上り切れないから、胸突坂と呼ばれるようになったんです。團:坂上すぐの目白台には、肥後熊本藩主細川家伝来の美術品などを公開する永青文庫もあり、散策が楽しいですね。素朴な疑問ですが、江戸時代に多くの坂に名前が付いたのはなぜですか?山野:町人エリアには幕府が町名を付けましたが、江戸の面積の8割を占めた武家屋敷・寺社エリアには町名を付けませんでした。目的地へ行くには里俗地名が必要になるため、坂道に名前を付け、目印にしたんです。團:坂には深い意味があるのですね。ところで、名前がかぶったりはしないのですか?山野:いい着眼点ですね。かぶっています(笑い)。それはね、行政が命名しているのではなく、住民が勝手に名付けているからです。かぶりが特に多いのは鉄砲坂ですね。その中でも、胸突坂の近くにある鉄砲坂が最も江戸の情趣を伝えています。團:この文京区の関口・目白台界隈には、風情のあるいい坂がたくさんあります。護国寺駅が最寄りの筑波大学附属中学校に通っていたので、付近の坂は日常的に歩いていました。通学時に歩く緩やかな付属横坂もあり、その坂がとても好きでした。山野:護国寺には團さんのお祖父さんの團伊玖磨氏(作曲家)、高祖父の團琢磨氏(三井財閥総帥)のお墓もありますよね。ちなみに都内で坂が特に多い地域は、文京区、港区、新宿区、千代田区です。都心が多いですね。團:面白い坂はどれですか?山野:永田町の三べ坂は、名字に「べ」が付く大名屋敷が3つ並んでいたことが由来です。江戸庶民の言語感覚は素晴らしい。團:洒落ていますね!●胸突坂/坂下の文京区・関口と坂上の目白台をつなぐように位置する胸突坂は、急勾配な石階段の坂。「江戸時代、水(すい)神社への参拝のために造られた坂です」(山野氏)。「スマートフォンでアプリの古地図を見ると、胸突坂の位置や形は江戸時代と同じですね」(團さん)●鉄砲坂/首都高速を背に、東京音楽大学目白台学生寮を右手に進むと、鉄砲坂の標識にたどり着く。石塀の間を迂曲して上る急勾配の坂は、文京区の関口と目白台の境に位置する。「学生寮のあたりに江戸時代、鉄砲の射撃練習の的場があったことから、その名が付きました」(山野氏)●日無(ひなし)坂と富士見坂/文京区と豊島区の境に位置し、狭く急な階段が続く日無坂は長さ160メートルほど。「江戸切絵図にも記されており、樹木が生い茂り、日光が差さない薄暗い道だったことがその名の由来です」(山野氏)。坂上で豊島区の富士見坂と交わり、角に建つ木造住宅と織りなす景観が趣深い。富士見坂は明治以降に開かれた●新坂/永田町2丁目、都立日比谷高校とメキシコ大使館の間にある新坂は、その名の通り明治以降に造られた。「一気に駆け上がると息が切れる急坂です。朝、学校や官庁に急ぐ人たちが必死に上ったことから、遅刻坂とも呼ばれています。毎日は上りたくない急勾配です(笑い)」(山野氏)。道の両側に続く石垣がこの坂の魅力の一つであり、特に日比谷高校の石垣は苔むして夏には緑が覆う。ゆっくりと歩けば情緒を味わえる散歩道だ●三べ坂/新坂を上って道なりに行くと、三べ坂の中腹に突き当たる。左折した先に立つ「華族女学校遺蹟碑」のあたりが坂上。中腹から参議院議員会館を眺める下りは、その美しい蛇行が江戸時代の道筋であることを伝えている。「『三べ』って何だと思いますか? 江戸時代、この辺りに和泉岸和田藩主・岡部筑前守、武蔵岡部藩主・安部摂津守、和泉伯太藩主・渡辺丹後守の屋敷があり、3家の氏に『べ』が付いていたことが由来です」(山野氏)【PROFILE】◆だん・はるか/1993年生まれ、東京都出身。聖心女子大学卒業。2010年、芸能界デビュー。女優、タレント、レポーターなど幅広い分野で活躍する。朝の情報番組『ZIP!』(日本テレビ系)にレギュラーレポーター(毎週月・火・木)として出演中。高祖父は三井財閥総帥の團琢磨、祖父は作曲家の團伊玖磨、父は東京・日本橋のコレド室町などを手掛けた建築家・團紀彦氏。◆やまの・まさる/1943年生まれ、広島県出身。坂道研究家、日本坂道学会会長。早稲田大学卒業。出版社社員時代から趣味で坂道研究に打ち込む。現在はNHK文化センター、朝日カルチャーセンターなどの坂道講座で講師を務める。著書に『大江戸坂道探訪』(朝日新聞出版)など。●撮影/吉場正和 取材・文/上田千春※週刊ポスト2019年5月3・10日号
2019.04.29 07:00
週刊ポスト
改憲で天皇の地位は「元首」に変わるのか、次の時代の役割変化は?
改憲で天皇の地位は「元首」に変わるのか、次の時代の役割変化は?
 平成の世を通じ、天皇は象徴天皇としてあるべき姿を模索してきた。だが、歴史を俯瞰すれば、天皇の意思に反して時の権力者が都合のよい天皇像を作り上げた時代も少なくない。“ポスト平成”に天皇像はどう変化するのか。現代史の専門家・秦郁彦氏と中世史の専門家・本郷和人氏が歴史を踏まえて考察する。秦:天皇の権威は現在まで続いているわけですよね。アメリカでさえ、天皇制をなくさなかった。戦後憲法でも、国家の象徴としての地位を与えられました。本郷:その憲法を安倍内閣は改正しようとしていますが、もし改憲が行われたら天皇の地位は変わると思われますか? たとえば明確に「元首」に戻るとか。秦:表向きにはしないでしょう。ただ、事実上の元首として扱う。いまでも諸外国が天皇を元首と見なしたときに、政府はわざわざ否定しませんよね。本郷:これまでの歴史を踏まえても、天皇陛下の存在は現在の象徴という形がピッタリ合うんですよね。天皇が先頭に立って政治をやろうとすると、あまりよろしくないんです。秦:自らの発意で天皇親政をやろうとしたのは後醍醐天皇ぐらいでしょう。本郷:あとは後鳥羽天皇もそうですね。秦:昭和天皇も、敗戦直後は政治家や軍人の重鎮がいなくなったので、マッカーサーの占領軍が統治していた7年間は実質的な国のトップとしてわたりあいました。しかし占領が終わると、象徴の立場に戻った。権力の発動に関わらないのは、天皇にとっても救いでした。本郷:いまは、その象徴としてのあり方についても議論があります。秦:保守派の中には、「象徴らしくあまり動かず静かに祈っておられたほうがよい」という声がありますね。被災者と膝を折って話すとか、旧戦地を慰問するとか、そういうことに違和感を抱く人たちがいる。本郷:公務ができないから生前退位したいという陛下に対して、「自分で公務をつくっているのに何をいってるんだ」という批判が出たのには驚きました。皇太子殿下が天皇になられたら、スタイルを大きく変えると思われますか?秦:徐々に変わるでしょうね。すでに国際性を重視する自分なりのスタイルを築きつつありますから、文化外交のような公務が増えるかもしれません。大戦の遺族もほぼいなくなりましたから、戦跡訪問はなくなると思うんですよ。本郷:将来的には皇位継承のことも大きな問題になります。男系男子のままで行くのかどうか。秦:悠仁さままでは皇位継承者がいるので、まだそんなに慌てる必要はないという考え方もあるんですよ。ただ、まわりに同年代の皇族がいないのはお気の毒ですよね。僕は昔からの日本の旧家のしきたりにならい、養子を認めるという手法も考えたほうがいいんじゃないかと思います。本郷:そうすると血がつながりませんよね? それとも血のつながりのある男性を養子にする?秦:できればそのほうがいいでしょうが、これまでの血のつながりについても、科学的な観点からすると「絶対」はあり得ないでしょ。本郷:では、女性天皇や女系天皇を認めるより養子のほうが良い?秦:養子は男系を維持する方法ですよね。養子制の良いところは「選別ができる」こと。宮家の当主が生きておられるあいだに養子を選ぶのです。本郷:ちゃんと調べて「こんな危ない人はダメ」と言えるということですね。秦:そうです。法的には当主に選別の権限がある。本郷:昔の華族のやり方を考えると、そのほうが座りは良いかもしれませんね。秦:天皇制は、無形文化財であることが最大の存在意義だと思います。だから、なるべく伝統に手をつけないほうがいい。よほどのことがないかぎりそのまま継承していくのが賢明です。こういう問題は理屈でいくら議論しても結論が出ないし、論議していると溝ができてしまう。本郷:たしかに、どう変えても反対意見はなくならないし、相手を「非国民だ」などと罵る人も出てきますよね。しかし、いまの天皇陛下の振るまいを見ていると、みんな穏やかな落ち着いた気持ちになれる。そういう点は、次の天皇も父君の路線をひとつの指針にされるかもしれません。【PROFILE】はた・いくひこ/1932年山口県生まれ。現代史家。東京大学法学部卒。大蔵省入省後、防衛大学教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学教授などを歴任。著書に『靖国神社の祭神たち』『慰安婦問題の決算』『実証史学への道』などがある。【PROFILE】ほんごう・かずと/1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。中世政治史が専門。東京大学文学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。近著に『軍事の日本史』『考える日本史』『やばい日本史』などがある。※構成/岡田仁志(フリーライター)※SAPIO2019年4月号
2019.02.25 07:00
SAPIO
平成の最後、皇室と宮内庁幹部の距離感が目立ってきた背景
平成の最後、皇室と宮内庁幹部の距離感が目立ってきた背景
 平成の終わりまで、5か月を切った。年が明けると皇位継承の式典がほどなく始まる。 2019年2月24日の「天皇陛下御在位30年記念式典」に始まり、「退位の礼」(4月30日)、「即位の礼」(5月1日)、「大嘗祭(だいじょうさい)」(11月14日)に続いて、再来年に予定されている秋篠宮の「立皇嗣の礼」まで2年に及ぶ。 そうした皇室行事の運営を取り仕切るのが、1027人の宮内庁職員たちだ。宮内庁の組織が複雑なのは、皇居で働く職員には、宮内庁の組織には所属せず、天皇家が直接雇用する「内廷職員」がいることだ。 代表的なのは皇居の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)での祭祀を行なう「掌典」(男性)や、巫女の「内掌典」と、それを補佐する「仕女」である。さらに皇后が蚕を飼っている「御養蚕所」や、天皇の「生物学研究所」の職員など人数は約50人とされる。 天皇家の衣食住すべてを国家公務員が支えながら、憲法の「政教分離」の原則で、宮中祭祀などに関わる職員は非公務員でなければならないため、内廷職員の給料は天皇の私的な費用の内廷費から支払われる。 宮内庁の上層部は霞が関の主流官庁出身者が独占し、その下にプロパー職員、そして天皇の最も近くに侍る内廷職員は天皇家が直接雇用する。複雑な組織のあり方が「菊のカーテン」を形作ってきた。◆変わりゆく「長官」の姿 昭和から平成の途中までは、その「菊のカーテン」が皇室の権威と政治権力を隔てる役割を果たしてきた。元外交官の村上政俊・皇學館大学非常勤講師が語る。「かつて天皇の藩屏として存在していた旧皇族や旧華族が廃止された後も、戦後の長い間、宮内庁と皇室の関係を支えてきたのは官僚個人の精神性でした。昭和天皇の時代には天皇陛下にお仕えしているという戦前の雰囲気が宮内庁に残っていたし、信頼できる側近がいた。 平成に入ってからも、今上天皇の侍従長を長く務めた渡辺允氏(元ヨルダン大使)の曾祖父は明治天皇崩御時の宮内大臣・渡辺千秋伯爵で、そうした家庭に育ったというバックボーンがあった」 渡辺・元侍従長の後任の川島裕・元侍従長(元外務事務次官)も曾祖父が犬養毅・首相である。 昭和天皇の率直な気持ちを記した「富田メモ」の存在が明らかになったときには、富田朝彦・元宮内庁長官への信頼の厚さが際立った。 2代前の羽毛田信吾・元宮内庁長官は、天皇皇后の悲願である「女性宮家創設」を、当時の野田佳彦政権に要請したこともある。しかし、平成の終わりが近づくにつれ、皇室と宮内庁幹部の間の距離感が目立ってきた。「個人の見識に頼るのは限界がある。宮内庁にはキャリア官僚を独自に採用して幹部に育てる仕組みがなく、皇室への精神性を維持する制度が担保されていない。その結果、次第に皇室を“お守りする”という気概を持った人材が少なくなり、現在の皇室は孤立した“裸城”のような状態です」(同前) そもそも、今上天皇が2年前の8月に異例の「お気持ち表明」をしなければならなかったこと自体、宮内庁が皇室と政治権力とのバランスをとる機能を失っていたことの現われだろう。「当時の風岡典之・長官は“お気持ち表明”を抑えられなかったことへの責任を政治の側から問われ、辞任に追い込まれたとされている」(皇室記者) その後任が、秋篠宮の誕生日会見で大嘗祭の費用について、「聞く耳を持たない」と批判されるほど、官僚としての“本分”に徹し、「官邸の意向」に忠実な山本信一郎現長官だった。 変容していく組織をかつてのトップはどうみるのか。羽毛田元長官を訪ねたが、「私はその立場にはありませんから、何も申し上げることはございません」と言葉少なだった。◆皇族の結婚にも関わる 秋篠宮は会見で、国民の関心が高い眞子内親王の結婚について問われると、婚約内定者の小室圭さんが「それ相応の対応をするべき」と語り、金銭問題を解決しない限り、結婚はさせない、という意向を示した。宮内庁OBは言う。「皇族は発言の自由がありません。何か言えば、“政治的発言だ”と批判されてしまう。渡辺侍従長や川島侍従長が《オク》にいた頃は、不自由な皇族のために心を砕いていることが庁内に伝わってきました。 強い信頼関係があれば、皇族にも率直に意見を言える関係を築くことができる。しかし、今回の眞子内親王の婚約延期についても、宮内庁は“事なかれ”に終始していたように見える。《オク》を任せられた方々がもっと秋篠宮家とのコミュニケーションを密にしてお相手の情報を共有していたら違う状況になったかもしれないと悔やまれます」 皇室には、眞子内親王をはじめ、佳子内親王や愛子内親王という、これから“適齢期”を迎えるプリンセスたちがいる。そして唯一の未成年男子皇族である悠仁親王にもいずれその時が来る。かつて皇太子の結婚に際して宮内庁が「お妃選び」に奔走した経緯がある。 来年の新天皇即位で新皇后となる雅子妃の病気もまだ平癒はしていない。御代がわりの後、皇族にとって、ますます宮内庁のサポートが重要になる。 そうした中、宮内庁幹部や職員の意識が時代とともに「天皇家の官吏」から、一行政機関としての「宮内庁の役人」へと変わりつつあることは、新しい時代の「象徴天皇制」にどんな影響を及ぼすのだろうか。※週刊ポスト2018年12月21日号
2018.12.13 16:00
週刊ポスト
NHKで俳優3人の“金田一リレー” ファン心をくすぐる演出も
NHKで俳優3人の“金田一リレー” ファン心をくすぐる演出も
 またしても名探偵・金田一耕助がNHKでドラマ化! NHK BSプレミアムで池松壮亮(28才)、長谷川博己(41才)に続いて、吉岡秀隆(47才)が演じることになった。ファン心をくすぐる演出と、“吉岡版金田一”の見どころについてコラムニストのペリー荻野さんが解説する。 * * * 7月28日、NHK BSプレミアムで放送される『悪魔が来りて笛を吹く』は、昭和を代表する推理作家・横溝正史が生み出した名探偵・金田一耕助を吉岡秀隆が演じることで話題になっている。  今回の物語の発端は、戦後まもなく、東京の有名宝石店で起きた毒殺事件の犯人と疑われた旧華族椿英輔(益岡徹)が「これ以上の屈辱に耐えられない」「悪魔が来りて笛を吹く」と遺書に書き遺して自殺。椿の娘・美禰子(志田未来)の依頼を受けた金田一が調査を始める。すると椿家で奇怪な連続殺人事件が勃発。英輔の自殺は本当なのか、悪魔とは誰なのか。やがて金田一は、旧華族のおどろおどろしい秘密にたどり着く…。 ただでさえ、困ったような顔が多い吉岡が、密室殺人や血まみれ事件を目の当たりにして、どんどん顔が暗くなる。そして、クライマックスでは絞り出すような声で「すべてを知る覚悟がおありなんですね」と語るのだ。 それにしても、このところのNHKの「横溝正史」熱はすごい。一昨年、BSプレミアムには同時期にふたりの金田一耕助が登場。『スーパープレミアム 獄門島』の長谷川博己と『シリーズ横溝正史短編集 金田一耕助登場!』の池松壮亮である。 同局で同じ人物をふたりの俳優が演じることも珍しいが、驚いたことに同じ金田一のはずなのにキャラはまったく別。『獄門島』の“長谷川金田一”は推理に行き詰まると、ボサボサ頭をかきむしり、歯をむいて怒り、宿泊する寺の屏風を蹴っ飛ばす困った男。さらに金田一は、突如「あははははは」とあざけ笑いながら、犯人が絶望する新事実を突きつける。ショックのあまり犯人は息絶えてしまうのである。なんてことを。 一方、CMやPVなどで活躍する新進気鋭のクリエイターが創った池松壮亮の金田一は、直径60cmはあろうかという巨大なもじゃもじゃ頭に史上もっともよれよれの復員服や着物の金田一だったが、それが「汚な可愛い」とファンの間で評判に。「黒蘭姫」「殺人鬼」「百日紅の下にて」と難事件を連続3日、しかも30分の持ち時間で解決したあたりは、さすがに若い金田一ってことだと思う。 興味深いのは、“池松金田一”は、最終話「百日紅の下にて」のラストで、獄門島に急ぐ設定になっていたこと。つまり、“長谷川金田一”の事件とつながっていたのだ。加えて、“長谷川金田一”は『獄門島』のラストで「アクマガキタリテフエヲフク タスケコウ トドロキ」という電報を受け取る。なんと、今回の“吉岡金田一”とつながっている!  同時期にふたりの俳優がまったくイメージの違う金田一になったことも面白いが、それからの続きで、また別の俳優が金田一になる“俳優3人リレー金田一”というのは予想外だった。金田一ファンの心をくすぐるBSプレミアムの新技(荒業?)がまた続き、今後、第四の金田一を出すのか。“吉岡金田一”の続編があるのか。そのあたりも気にしつつ、吉岡秀隆の金田一を見ておきたい。
2018.07.28 16:00
NEWSポストセブン
紀州のドン・ファンより凄い 「パリの日本人蕩尽王」伝説
紀州のドン・ファンより凄い 「パリの日本人蕩尽王」伝説
「紀州のドン・ファン」と呼ばれた和歌山県の実業家・野崎幸助氏が自宅で倒れ、その後死亡した事件が注目を集めている。野崎氏は酒類販売業や不動産業で50億円とも言われる資産を有する富豪で、美女4000人に30億円もの大金を貢いだことを公言していた。 何ともスケールの大きなカネの使い方が話題を呼んでいるが、歴史を紐解けば上には上がいる。戦前には、「ひたすらカネを蕩尽する」というただそれだけで、世界に名を轟かせた日本人がいた。その名は薩摩治郎八。商人として大成功した薩摩治兵衛の孫として生まれた。薩摩は裕福な実家の資金によって1920年代のパリに居を構え、現在の価値にして800億円ともいわれるお金を湯水のごとく浪費し、「東洋のロックフェラー」「バロン薩摩」として名を馳せたのである。 ライフネット生命創業者にして立命館アジア太平洋大学会長である出口治明氏の編著『戦前の大金持ち』(小学館新書)には、薩摩治郎八の数々の伝説が書かれている。華族出身の妻の千代子に、無際限にカネをかけて着飾らせ、高級紙の一面を飾らせる。藤田嗣治をはじめとする日本人画家のパトロンとなり展覧会を開き彼らを有名にする。1929年、2億円(現在の価値で約40億円ともいわれる)を投じ、パリ国際大学都市で「日本館」という豪華絢爛な学生寮を建設する──。伝説は挙げればきりがない。 ところが、薩摩の栄華は続かない。私財を完全に使い果たして、没落して日本に帰ることになるのだ。戦後は浅草に住み着き、ストリップ小屋の常連となって、浅草座に出演していた踊り子と再婚。74歳で亡くなるまで彼女の郷里である徳島で暮らしたという。一見落ちぶれたように見える彼の晩年を、しかし出口氏は「幸せだったのではないか」と評する。〈お金は使うためにあると思っている人は、使ってしまえばなくなってしまうことも同時に理解しています。お金に執着がないので、なければ使わないだけ。全く平気でいられるのです。その意味で彼はお金を失うことに怯えない人生を送った。 彼の晩年は元踊り子のお針子さんに養ってもらったようなものですが、「自分はやりたいことをやりたいようにやってきたのだから、それでいいんだ」とさばさばとしていたのではないでしょうか。 こうした薩摩治郎八の生き方は、現代を生きる僕たちにも多くのことを教えてくれます〉(出口治明・著『戦前の大金持ち』より) その死後も、パリで薩摩の援助を受けた日本人画家たちが活躍を続けている。
2018.06.05 16:00
NEWSポストセブン
【著者に訊け】奥泉光さん 二・二六事件前夜描く『雪の階』
【著者に訊け】奥泉光さん 二・二六事件前夜描く『雪の階』
【著者に訊け】奥泉光さん/『雪の階』/中央公論新社/2592円【本の内容】1935年、貴族院議員の笹宮伯爵の娘、惟佐子は、女子学習院の同級生である友人の心中事件に疑問を抱く。惟佐子に依頼された千代子と新聞記者の蔵原が謎を追う中、証言した男が殺され、惟佐子の兄の陸軍士官の影がちらつき始める。翌年の二・二六事件前夜、兄妹は帝国ホテルの一室で向き合うが…。戦前の空気が濃厚に漂う、ミステリー仕立ての長編。昭和初期の東京や日光を舞台に、華族の令嬢、惟佐子が心中事件の謎を追っていく。殺人、スパイ組織、陸軍、恋愛など、いくつもの要素が重なり合って進む物語は、スリリングでいて心地よく、ページを繰る手が止まらない。「武田泰淳の『貴族の階段』という小説から、いくつかの場面を借りています。雪の中で意外な2人の逢瀬を目撃するとか、主人公が睡眠薬をのませるとか。小説は何を書いてもいいものだから、逆に何か枠組みがほしかったんです」学生時代に読んだこの本の面白さに触発されたことが、執筆の1つの動機になっていると、奥泉さんは振り返る。今回の作品の魅力の1つが、惟佐子という人物だ。この貴族院議員の娘を主人公にしたのも、『貴族の階段』にならっている。「政治の裏面を知りえる立場にいるけれど、女性であるがゆえに、当時は政治的な責任や義務がなく、客観的に見ている。情報にアクセスできるけど、その情報についてむしろ批評的になれるんです」女子学習院高等科に通う美貌の持ち主は、父親よりも政局を冷静に判断し、数学を愛し、孤高の雰囲気を漂わせる。そして意外にも、次々に男性経験を重ねていくのだ。「驚くと思います。普通のお嬢さんではない。怪物的だけど、ギリギリのところで健全な世界に踏みとどまっている人なんです」想定外の展開に唖然としつつ、物語は1936年、陸軍の青年将校が天皇中心の体制を求めて反乱を起こした二・二六事件で終わる。奥泉さんは史料を丹念に調べ、着物の柄から言葉遣いまで、当時の風俗、空気感を見事によみがえらせている。例えば、兵士に犬がまとわりつく写真の話が出てくるが、その写真は実在するそうだ。結婚事情、女中や書生のいる麹町の屋敷、軽井沢での避暑など、伯爵家の暮らしも、旧華族の女性の聞き書き史料などから再現した。二・二六事件の数年後、日本はアメリカとの戦争に突入する。「今、ナショナリズムが再び大きな支配力を持つ気配がある。その直感がこの小説を書かせたのかもしれません。軍部が着々と戦争に向かっていったわけではなく、急に場面が転換して始まったように見える。この昭和史の謎は今後も小説の形で追究していきたい」■撮影/藤岡雅樹、取材・構成/仲宇佐ゆり※女性セブン2018年5月24日号
2018.05.15 11:00
女性セブン
美智子さまの胸中に「なぜ、このような状況に…」のお気持ち
美智子さまの胸中に「なぜ、このような状況に…」のお気持ち
 天皇陛下、皇太子さま、秋篠宮さまが一堂に会される「頂上会談」は、2012年春頃から月に1度のペースで行われてきた。未来の皇室の在り方を語り合われ、陛下の生前退位の意向も、発表前からその会談の場で共有されたという。《皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々》 2016年10月、82才の誕生日文書にそう綴られていたように、美智子さまは1歩引いたスタンスを貫かれている。午前中に頂上会談が行われたときには、その後の昼食から合流されるのが恒例だ。 4月17日午前、皇居で頂上会談が行われた。まず到着されたのは秋篠宮さま。午前10時46分に、半蔵門から皇居に入られた。遅れること5分、皇太子さまが到着された。 皇太子さまがお帰りになったのは午後1時35分。だが、普段ならその後すぐに出てくるはずの秋篠宮さまを乗せた車は、一向に姿を見せなかった。やっと出てきたのは午後2時41分。皇太子さまとは1時間も差があった。 皇太子さまが退出されてから、おそらく両陛下と秋篠宮さまの3人で話し合われたこと――それは、眞子さまのご結婚の話題に他ならないだろう。小室圭さんとの結婚関連行事の延期が発表された2月6日から2か月余り、眞子さまはふさぎ込む日々を過ごされているという。「眞子さまは4月13日、来日中だったブータンのトブゲイ首相夫妻と、秋篠宮邸で面会されました。宮邸内での接見や懇談にはお姿を見せられていますが、こと外出公務となると2月16日に秋篠宮ご夫妻と映画鑑賞にお出ましになったのが最後。昨年と比べても、その数は半減しています。 立て続けに報じられた小室家のトラブルの中には、眞子さまがご存じなかった内容も含まれていたそうで、少なからずショックを受けられたといいます。それでも眞子さまは小室さんとの結婚という将来に思いを馳せられているそうですが、宮邸にいらっしゃるときには、ご自身の部屋にこもっていることも多い。結婚延期が影響していることは明白でしょう」(皇室記者) 現段階では、あくまで「延期」されたにすぎない。だが、2年という期間は決して短いものではなく、「破談」の可能性も含まれているだろう。「延期発表の直後、美智子さまは、“結婚を予定していた女性が、もしそれが叶わなくなってしまったら、どれほどの心の傷を負うでしょうか”と周囲に漏らされたといいます。意味深長ではありますが、美智子さまのお考えの中にも『破談』の2文字が浮かんでいることが伝わってきます。実際にそうなったら、眞子さまはどう感じられるのか。それを心配されての言葉だったのでしょう。美智子さまにとって、眞子さまはいつまでも『かわいい初孫』ですから」(宮内庁関係者) 一方で、姑・美智子さまと、嫁・紀子さまの間には亀裂が見え隠れする。3月20日、皇居・東御苑の『桃華楽堂』で、「音楽大学卒業生演奏会」が開かれた。東京芸大など5つの大学の卒業生が奏でる音色に、美智子さまや雅子さま、秋篠宮ご夫妻らが耳を傾けられた。「美智子さまは、右隣に着席された雅子さまと笑顔で談笑されていました。一方、秋篠宮さまを挟んで左側に座られた紀子さまは、美智子さまの問いかけにうまく反応できていないというか、視線を逸らされようとしていたように見えたのです」(別の皇室記者)◆結婚は家と家のことですから 美智子さまのご心痛は察して余りある。だが、その懊悩とともに美智子さまの胸中に渦巻くのは「なぜ、このような状況になってしまったのか」というお気持ちだという。「秋篠宮ご夫妻は、お子さまがたの自由な意思決定に委ねられる教育方針を徹底されてきました。『皇族は学習院で学ぶ』という慣例を破って、眞子さまと佳子さまは国際基督教大学(ICU)へ進学され、悠仁さまは幼稚園からお茶の水女子大学附属を選ばれた。眞子さまのお相手選びも、秋篠宮ご夫妻は“眞子がその人がいいと言っているのならば”と本人の選択を最大限尊重されてきました。 一方で、皇族の結婚となると単純な話ではなかった。多くの日本人がそう考えるように、美智子さまも以前から、“結婚は家と家のこと”とお考えになられてきたといいます」(前出・宮内庁関係者) 美智子さまは、民間出身初の皇太子妃として皇室に嫁がれた。「それまでは、旧華族などからお妃候補が選ばれてきました。確かに、美智子さまはそうではありません。ですが、『一般家庭』かといわれればそうともいえません。美智子さまの祖父・正田貞一郎さんは日清製粉の創業者で、父・英三郎さんも社長や会長を歴任。一方、母・冨美さんは佐賀県の武士の家柄に生まれています。兄と弟は東大法学部を卒業し、妹は美智子さまと同じ聖心女子大を卒業。毎夏、軽井沢の別荘でテニスを楽しむご家庭でした」(皇室ジャーナリスト) そんな「良家のお嬢さま」だった美智子さまにも、結婚後の皇室の逆風は強かった。「美智子さまへのいじめは凄まじいものでした。お召し物や持ち物への批判にはじまり、話し方や言葉尻まであげつらう。国民の気持ちを慮って、車の窓から生まれたばかりの浩宮さま(皇太子さま)の姿を報道陣に見せれば、“赤ん坊をストロボに晒すとは”と。 そんな実体験から、“皇族の結婚は、本人の意志だけでは成り立たない”という考えが、美智子さまのお心のうちに強く染みついたのも自然なことです。美智子さまほどの“由緒正しいお家柄”のかたでさえ、大変な苦労をされたわけですから」(前出・皇室ジャーナリスト)※女性セブン2018年5月3日号
2018.04.20 07:00
女性セブン
撮影/雑誌協会代表取材
眞子さまと小室圭さん結婚延期、学習院派閥の影響も?
 2月6日、眞子さまと小室圭さんのご結婚延期発表がなされた。本誌女性セブンは、結婚延期が発表される2月6日以前から、「小室家の醜聞を世間に広めようとする勢力」の存在を報じてきた。 1月25日発売号の《真子さまの結婚 抵抗勢力の蠢き》と題した記事や、続く2月1日発売号の《「小室家の闇報道」と「破談を巡る筋書き」》という記事では、誰かが意図的に小室さんに関する情報を集め、メディアに流すことで、眞子さまの結婚に疑問を投げかけるような“キャンペーン”を張っているのではないかと指摘した。 そんな中で、急転直下で決まった結婚の延期。いったい誰が、どんな目的で…? そうした疑問を解く鍵は、「皇室の教育の分かれ道」に隠されていると、ある政治ジャーナリストは指摘する。「眞子さまと小室さんの恋は、キャンパスライフの中で育まれました。ふたりの婚約内定は、世間では“閉鎖的な日本の皇族には珍しい、自由恋愛の成就だ”と祝福されました。それは、秋篠宮ご夫妻が古くからの皇室の慣習にとらわれずに、お子さまを教育されてきたからだともいえます。具体的にいえば、学習院大学に進学させず、国際基督教大学(ICU)に進ませたことです。実際、真子さまと小室さんは、ICUで出会いました。秋篠宮ご夫妻はまた、悠仁さまも学習院初等科ではなく、お茶の水女子大学附属小で学ばせています。  しかし、そうした“学習院を否定する教育”を歓迎しない皇室関係者のグループがあることも事実です。今回の小室さんの一連の報道との関係はわかりませんが、皇族の子息子女の教育を熱心に考えてきた学習院関係者やOBの中には、秋篠宮家の教育方針、ひいては“眞子さまの自由恋愛を礼賛する風潮”に違和感を覚える人たちもいました」 そもそも、学習院は皇族・華族のための教育機関として開校された。秋篠宮ご一家のお子さまたちが学習院を離れる一方で、皇太子ご一家の愛子さまは学習院での教育を受け続けられている。大学進学はまだ先の話なのでわからないが、関係者の話では学習院大学に進学される可能性も高いという。「学習院で学ぶこと」と「ご結婚されること」…それらは一見すると無関係に思えるが、女性皇族にとっては、実は大きな関係がある。 たとえば、陛下の長女である紀宮さま(黒田清子さん)のご結婚相手は、一般家庭に育った黒田慶樹さんだった。その黒田さんは大学まで学習院で学ばれてきた。秋篠宮さまとご結婚された紀子さまも、大学院まで学習院だった。「一部の学習院関係者やOBの間には、“皇族とご結婚されるならば学習院で学ばれたかたのほうが安心だ”という考え方があります。それは、長年にわたって皇室の教育を担ってきたプライドもあるでしょう。 愛子さまは雅子さまの方針もあり、学習院で学ばれています。しかし一方で、秋篠宮ご一家の眞子さまは学習院を出られ、そこで小室さんと出会われた。一部の関係者からは、“だから眞子さまの結婚には問題がでた”という声も聞こえてきます」(前出・政治ジャーナリスト)撮影/雑誌協会代表取材※女性セブン2018年3月8日号
2018.02.26 11:00
女性セブン

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