米軍統治下の沖縄で活躍した伝説のジャズシンガー・齋藤悌子さん(87才)(C)Yuta Nakama
当時の沖縄では各地で基地の建設が急ピッチで進み、それに伴って米軍関係者が娯楽を楽しむための施設や、将校クラブも増えていた。本土やフィリピンからもプロの演奏家は来ていたが、音楽家協会の取り決めやビザの関係で長期滞在することができなかった。そのため齋藤さんのような沖縄出身の歌手は重宝されたという。
「夫も千葉出身だったので、基地で演奏を続けるためにはビザが必要だったんです。だから私の戸籍に養子として入り、いまで言う“偽装結婚”みたいな形になって(笑い)。後で実家のお義父さんに『なんで姓が変わってるんだ!』って怒られてましたけど、あの頃の沖縄は日本じゃなかったから、そうするしかなかったんです」(齋藤さん)
米軍と契約した齋藤さんは、勝さんのバンドと共に各地の将校クラブやNCO(下士官)クラブのステージを回った。
「目まぐるしい日々でしたけど、楽しかったですね。とにかく数多く歌わなきゃいけないし、兵隊さんからいろいろな曲をリクエストされるから、流行している曲を必死に覚えました。感激したのは慰問で基地に来たサラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドの歌う姿を生で見れたこと。ラジオでしか聴いたことのないミュージシャンを目の当たりにして、しかもタダで聴けるなんて私は何て幸せなんだろうと……。宝物のような思い出です」(齋藤さん)
よくリクエストされた『ダニーボーイ』
1955年にベトナム戦争がはじまると沖縄は米軍の重要な後方基地と位置付けられ、米軍キャンプから多くの兵隊が出征した。
「あの頃、印象に残っているのは『ダニーボーイ』をよくリクエストされたことです。アイルランド民謡のこの歌は、戦地に向かう息子や孫を思う親の気持ちを歌った曲なんですね。ある晩、兵隊さんが泣きながら踊っているので、どうしたのと聞いたら『明日、ベトナムに行くんだ』と。切なくなっちゃってね。
沖縄もさんざんひどい目に遭ったけど、あの兵隊さんだって生きて帰って来られたかわからない。つくづく戦争はいやだし、いけないことだと思います」(齋藤さん)
齋藤さんに英語の発音を熱心に教えてくれたのは、米軍の準機関紙「スターズアンドストライプ」(星条旗新聞)のジャーナリストだった。
「なぜかご夫婦で目をかけてくださったんです。食事をごちそうしてくれたり、英語の歌を教えてくれたりしてね。一度、そのかたから『アメリカに行って本格的に勉強しない?』と言われたこともあるのですが、夫と結婚の約束をしていた私には、彼と離れることは考えられなかった」(齋藤さん)