暴力を振るわれた被害者の認知が歪まされる(イメージ)
スポーツ強豪校には地域、そして全国から将来を有望視された生徒達が集まる。「この監督・コーチの元でプレーしたい」と希望し、親元を離れやってくるのだ。そうやって入部し、部活でたとえ体罰にあったとしても、子供なりに覚悟を決めている以上、やめたり休むという選択肢は取りづらい。さらに、憧れの指導者に食らった鉄拳制裁を「これも愛情だ」とゆがんだ解釈をすることで、生徒が自身の存在意義を保っているような面もあるという。
当然親も気持ちは同じで、有名な先生を怒らせた子供が悪い、この厳しい指導を乗り越えられればより強くなれる、と考えがちだ。子供を厳しい指導へと後押ししたのも親であり、信じて送り出した学校の監督が体罰を行っても「先生は悪くない」「事情があったはずだ」と、我が子を疑うようなという思考になる。こうしているうちにだんだんと、その集団を取り巻く関係者全体に、体罰容認の空気が醸成されていくのだという。
体罰をやめる代わりに言葉の暴力
「私立高校なんかだと、実績のあるコーチを呼び止めておくために、問題があっても学校側が見て見ぬフリをする。そうやって強権的になりすぎて、部活動がむちゃくちゃになってしまったという学校もたくさんあります」
こう話すのは、福岡県内の公立高校元校長・篠崎健氏(60代)。やはり、スポーツに力を入れている学校ほど、未だに体罰容認の風潮は根強く残るという。
「私も古い人間ですから、体罰を受けたこともやったこともあります。特にスポーツ、部活の現場では選手、生徒に体罰を含むプレッシャーをかけないと成長しないと信じている指導者、親も多いのです。しっかり結果を出していればなおさら。実績がある指導者には文句も言えず、今度は親も子供も、黙って容認するようになるんです」(篠崎氏)
強豪校だから仕方がない、実績を残すため、そうやって生徒や親が自分自身を説得しているのだとしたら悲しいことだが、現実に起きている問題だ。そして更に、先生の体罰は体罰ではない、もしそうだとしても「愛情だ」と感じ始める子も多くいたという。
「高校生や中学生といえど、やっぱり子供。残念ながら暴力を愛情と勘違いして、そのまま成長してしまうと大変です。最近では、体罰をやめる代わりに言葉の暴力がはびこっているという話も聞きますが、結局、暴力で子供を指導しても絶対にダメなんです。痛みや屈辱を与えても、一時的な原動力にはなるかも知れませんが、非人間的だし、恨みが残るだけで誰も幸せにならない。時代遅れの指導者は去るか、猛省の上で考え方を切り替えるしかない」(篠崎氏)