しかし、その「自己満足」が不可能なのが詐欺取得罪で起訴された松尾なのである。このままだと松尾は、単に私利私欲のために卑怯な手を使って三井物産を騙し金を稼いだことになる。「武士の風上にも置けない恥知らず」になる。つまりこれが「破廉恥罪」ということだ。だが、これが「金剛のビッカース社受注」をスムーズに進めるための贈賄罪だったとすると、松尾は「たしかに刑法上の問題はあったが、目的は間違っていない」と「思い込む」ことができる。帝国海軍には迷惑をかけていないし、国益にも資することができたと「思い込む」こともできる。これが松尾の「心情」なのである。
刑の軽重の問題では無い。詐欺取得罪なら「国益など関係無いと私利私欲に走った破廉恥漢」になるが、贈賄罪なら「手段には問題あったが、国益に資した国士」になる。この違いは大きい。元禄の昔、大石内蔵助ら四十七人の浪士が本来なら打ち首になるところを、武士の礼を以って切腹という処分になったとき、彼らは幕府の恩情に感謝したと伝えられている。「どっちも死刑なんだから同じこと」などと武士は絶対に考えない。無理やりに首を斬られるのと、「自決」するのは天と地の違いがある。
しかし、あくまで近代社会の出来事なのだから、松尾が贈賄を認めてしまえばそのカネの贈り先である松本中将も収賄したことになってしまう。そうなれば海軍による、その海軍の中核たる軍艦についての「許しがたい汚職」ということになるから、そのころに海軍のトップにいた現首相の山本権兵衛の責任も問うことができる。まだ裁判が進行中の一九一四年(大正3)三月十三日、貴族院で行なわれた予算案審議で質問に立ち、山本権兵衛首相に最大級の罵倒を浴びせ辞任を迫った貴族院議員村田保の「攻めどころ」もそこだった。
〈山本大臣閣下ヨ、閣下ハ人間ノ最モ尊ブ所ノ名譽、廉耻ト云フコトヲ本員ハ御存ジナクハナイカト云フコトヲ疑ヒマス、何トナレバ人民ガ閣下ニ對シマシテ、公然公衆ノ前ニ於テ閣下ヲ國賊ト言ッテ居ルデハアリマセヌカ、海軍收賄ノ發頭人ダト云フコトヲ申シテ居リマス、閣下ノ面貌ハ監獄ヘ行ケバ類似ノモノハ澤山アルト言ッテ居リマス、是等ノ語ハ人ノ名譽ヲ毀損シ、人ヲ侮辱スルコト是ヨリ甚シイモノハナイト本員ハ思ヒマス、田夫野人ト雖モ之ヲ聞ケバ容赦ハセヌ、之ヲ聞イテ默シテ居ル者ハ犬猫同樣ダト言ハレテモ仕方ガナイ、山本大臣閣下ヨ、閣下ハ日本ノ刑法モ御存ジ游バサレマセヌデゴザイマスカ、人ノ名譽ヲ毀損シタル者ノ罰ガゴザリマス、何故法廷ニ持出シテ閣下ノ身ニ纒ヘル所ノ疑惑ヲバ青天白日ノ如クナサレマセヌカ〉
(『貴族院議事速記?第十四號』国立国会図書館 帝国議会会議録検索システムより)
念のため簡単に現代語訳すると「山本首相、あなたは恥ということを知っていますか。ご存じないのではないかと私は疑っています。なぜなら国民はあなたに対して『国賊』であるとか『海軍収賄の主犯』であるとか、あるいは『あなたの顔に似ている男は監獄に行けばたくさんいる』と言っています。これらはもちろん名誉毀損でありますから、たとえ一市民であっても断じて許してはいけないことで、黙っているのは犬猫同然だと言って差し支えない。それなのに貴方はなぜ刑法に基づく名誉毀損で彼らを訴えないのですか。潔白ならばそうすべきです」ということだ。
村田の罵倒はまだまだ続いた。
(文中敬称略。1376回似続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年4月7・14日号